#130 2020年8月 阿片戦争 |
8月初旬に関東で梅雨明け宣言がされると、間髪いれずに猛暑となりました。 熱中症への注意ということでは、もう長いこと言われ続け、私たちの間でも定着してきているとはいえ、今年はコロナ予防のマスクということもあり、暑さに対しては二重の苦しみです。 くれぐれも、体温上昇には気をつけてください。 香港以前に、「我將介紹香港」としてかわら版で香港をご紹介したのが、#039-#041 2012年6月〜8月になるので、あれからもう8年が経ちました。 当時のタイトルも「香港、手軽にいいかも」という具合に、日本から近い外国として紹介していたのですが、その後に香港を取り巻く情勢は大きく変化し、この7月からは多くの香港市民が懸念していた「香港国家安全維持法」が施行され、1997年以来続いていた「一国二制度」の崩壊が憂慮されるほど荒れてきています。 このことは、香港民主化の象徴ともいうべき周庭(アグネス・チョウ)氏や反政府系の新聞社の黎智英(ジミー・ライ)氏の逮捕などをめぐって、連日報道されているのは新しく聞くところです。 ところが振り返ってみれば、私たちは共産主義国家の中で、どうして香港がいままでその地位を守って、自由に往来のできるアジアのハブ(交差点)のような位置づけになったのかということを、長いこと知らずに過ごしてきているのかもしれません。 英国と清国の貿易地理的にその位置は、紀元前から中華民族の国家(清)の管轄のもとに置かれてきました。 その歴史の大きな転換点となったのが1839年に英国との間に起きた阿片(アヘン)戦争です。 当時英国はヨーロッパ側の窓口として東インド会社を通じてアジアとの交易を行なっており、清国側は香港が位置する広東港だけをヨーロッパ商人への窓口としていました。 英国が輸入するものとしては、お茶や絹、陶磁器などの生活に関わる品々であったのに対して、清国側が輸入していたものは富裕層に向けた時計や望遠鏡のような製品で、貿易における不均衡(英国の輸入超過)の是正は英国にとっての長年の課題でした。 清国では前の明(ミン)の時代からアヘン吸引の習慣が始まりましたが、18世紀末の清の時代にアヘンは輸入禁止となっていました。 英国はインドで製造したアヘンを清国へ密輸出し、大きな利益を得ることで、その不均衡を相殺することを考えました。 阿片戦争現代の各国の様相をみると分かりますが、文字通り「麻薬」の蔓延は、秘密のうちに広がっていくものです。 19世紀になっても、清国内のアヘンの蔓延は収まらず、様々な方策がなされましたが効果を出せず、1838年に林則徐という人物を匿名大使に任命して広東に派遣して、取り締まりに当たらせました。 そして、清国のアヘン商人たちにアヘンを持ち込ませない誓約書を書かせ、英国商人に対しても同様の誓約書の提出を要求し、所有するアヘンの没収と処分を行ないました。 英国商人は誓約書の提出を拒み、外交官のチャールズ・エリオットは広東在住の英国人全員でマカオに退去しました。 この機に、英国人の現地民殺害を口実に林則徐はマカオを封鎖して食料を断ち、井戸に毒をまぜて英国人を毒殺しようと目論見ました。 しかし、このような対抗的な措置は英国を怒らせる事になりました。 英国はその艦隊を広東ではなく沿岸沿いを占領北上しながら、天津(北京に近い渤海湾)に向かいました。 これに驚いた清国王は強硬派の林則徐にその責任を負わせて罷免し、後任にg善(キシャン)を当て、英国との交渉を始めました。 ここで最初の川鼻草約(せんびそうやく=条約)が締結されましたが、その後の情勢の変化で清国側がこれを拒否します。 この締結拒否への報復として、圧倒的な火力の英国艦隊は揚子江にまで進出し、北京を孤立させます。 この状況は致命的で、1842年8月に川鼻草約にかわり、さらに強硬的な条項の入った南京条約が交わされ、阿片戦争は集結しました。 香港割譲南京条約では香港島の永久割譲が謳われていました。 さらにこの後、約50年にわたり清国は多くの不平等条約をヨーロッパ勢と結ぶこととなり、現在の九龍半島南部と香港島、及び周辺の235の島が1898年から99年間の期限で英国に租借されることになりました。 そして1997年7月1日。 …しかし、2020年7月1日に施行された「香港国家安全維持法」がこれを根底から覆すことになり、いま香港は非常に緊迫した状態となってしまった事は、皆さんもご存じであると思います。 |
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