#100 2017年11月 お江戸日本橋 |
秋の日はつるべ落としといいますが、11月になって急に昼間の長さが短くなってきました。 考えてみれば、あと一か月もすれば冬至です。 人の身体は不思議なもので、真夏の一番暑かったあの暑さを肌はすっかり忘れて、寒々しい木枯らしにさらされると、懐かしく思い出すものです。 インフルエンザのワクチンが足りないということですので、くれぐれもお身体を壊さないように!! お江戸 日本橋…子どもの頃の記憶というのは、いくつになっても変なところで思い出すもので、おそらく幼稚園の時に習った歌だと思うのですが、
という歌が何かの拍子に頭に浮かんで、思い出して口ずさんでいました。
調べてみると18番まであって、18番では「大津の都入り」とあるので、京都までの東海道の旅路を歌った民謡だったのですね。
という1番の歌詞からすると、
を謡ったのでしょう。 さて、七つって?よく時代劇の中でも、或いは落語の「時そば」の中でも、「いま、何刻(なんどき=いくつ)だい?」 「へい、ここのつ(九刻)で」 というように、時刻を数字で言い表していました。 ここでいう「ここのつ」とは、今の何時になるのでしょう? 古いかわら版をご覧いただいた方は、以前に陰陽五行説をお話しした、方角や時刻と干支の関係を思い出してください。
簡単におさらいすると、
ということです。 干支の順番がおぼつかないという方には…
という並びですので、覚えてみてください。 (干支については #014 2010年2月 干支の話 をご覧ください。)
ということで、この時刻の呼び方には、「子の刻」と言う言い方と、「ここのつ」と言う言い方があったようです。
江戸時代には、時刻を知らせるのに鐘が打たれました。 この鐘の数が時刻を知らせることになるのですが、ちょっと変な工夫がありまして、二時間ごとに9の倍数で打たれていました。 そのままいけば、深夜12時に9回、二時間後の2時に18回、朝の4時に27回となり、途方もない数の鐘が夜中に鳴ることになります。 そこで10の位を省略して、9、8、7… と二時間ごとに鐘を鳴らしました。 ここで、先の「七つ立ち」というのが、二時間おきの鐘なので明け方の4時ということが分かると思います。
そして昼の12時になると再び9つに戻り、14時の「昼8つ」はいまでもその頃とおなじ、オヤツの時間となります。 日本橋発 五街道現代でいえば戒厳令のようなものになるのでしょうが、江戸時代に幕府は治安上、七つ(午前4時)前の外出を禁止していました。 そして初上がりということは、その年に初めて京の都に向かうということなので「旧暦元旦のころ」になるので、いずれにしても日の出は朝の7時前後ということになるので、だいぶ寒いさなかを、朝4時に提灯片手に出発したものです。
徳川家康は、江戸に幕府を開いた翌年の1604年には、江戸の日本橋を起点とする五街道の整備を命じました。 五街道とは、「東海道」「中山道」「甲州街道」「日光街道」「奥州街道」です。 (中山道については #105 2018年4月 中山道〜碓氷峠 もご覧ください。 )
これらはもちろん現代でも重要な幹線道路ですが、当時も道幅は 京間の六間(約12メートル)、路面は畳の厚さで砂利や砂で舗装されており、一里塚が置かれ、並木が植えられたといいます。 さすがにいまでは砂利や砂の舗装はアスファルトに取って代わられていますが、日光街道や旧東海道の一部には、いまでも並木が残っているのをご存知の方も多いと思います。 なんでそんな立派な街道を…一番の理由は、やはり諸大名に命じた「参勤交代」の大名行列が街道を行きかう機会が多いことだと思います。 そして二番目にあがるのが、この国の国民(庶民)がなかなかの旅好きであったことがその理由とも思えます。 お伊勢参りや霊場巡りなど、いまでも指折り数えれば「旅の目的」になるものがいくつも思い出されてきます。
関所があって人の移動に制約があったとはいえ、童謡「とおりゃんせ」にもあるような「お札をもらいに」「お札を収めに」または、「伊勢詣で」「出雲詣で」などは旅の大義として、立派な理由でした。
庶民が、ある目的のために旅をするという習慣は、江戸時代よりもさらに100年古い室町時代の記録にも、「伊勢、参宮者で賑わう」とい記録が残っています。 街道(特に東海道)を人馬の行き交いがいかに多かったかというと、箱根路の舗装代わりに敷かれた石は、わらじに擦れてすっかりすり減っていると、当時でもいわれていました。
(街道については #059 2014年3月 東海道を走る「駅伝」 国道の話 もご覧ください) |
|