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#142 2021年8月 黒い雨

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うーん…。
6月梅雨入り、7月梅雨明け、そして8月の今、早速の秋の長雨? というぐらいに、ヒンヤリするような気配の日が続いています。

終戦の日の映像を見ても、やはり夏は相当暑いもの…のはず。

コロナも夏には勢力が衰えると思ったら、逆に猛威を奮うようで。
とにかく自衛+ワクチンで備えを!


「黒い雨」訴訟

7月29日の朝日新聞でも既報のように、広島への原爆投下後に降った、放射性物質を含む「黒い雨」を浴びた住民84名の方々全員を被爆者と認め、被爆者手帳の交付を命じた広島高裁の判決が確定しました。

元々の被爆者手帳交付の基準とは簡略化すると次のようなものです。

 

1  直接被爆者 (原爆投下の際に一定の区域内にいた人)

2  入市被爆者(8月20日までに爆心から約2km以内の区域に入った人)

3  死体の処理及び救護に当たった人

4  上記かの各項に該当する胎児(昭和21年5月31日までに出生の嬰児)

 

被爆者手帳があると、医療手当、健康管理手当、介護手当などの他に指定医療機関等での治療を、手帳を提示することで実質的に無料で受けられるなどの措置があります。
この被爆者手帳の交付基準によると、爆心地を中心として一定の範囲にいた人を対象に手帳が交付されているのが分かります。

今回のこの「黒い雨」訴訟は、「いや、そうではなく、原爆投下の直後に降った黒い雨を浴びた住民も同じような原爆の後遺症で苦しんでいるのだから、同じように被爆者手帳を交付して欲しい」という訴えでした。


気象観測の原点と「黒い雨」

当時は戦時下で、さらに炸裂した「新型爆弾」が世界で最初となる「原子爆弾」ということも分からない状況でした。
分かっていたのは目の前に広がる光景で、一瞬で広島の街がなくなったということだけです。

被災の状況を調べるにも、広島には被災者があふれ、そこにいたのは被害を被った人と、その救護に当たる人だけでした。

空高くあがったキノコ雲と、その後に降った「黒い雨」との関りを知るには気象の情報を掴むしかありません。

 

この時の広島には、爆心地から南に約4kmほど離れた瀬戸内海に面する丘に、「広島地方気象台」がありました。
各地方に置かれた気象台の中核となるのは、東京に置かれた中央気象台(現在の気象庁)になります。

この中央気象台で1941年まで台長(現在の気象庁長官)を務めた方に岡田武松さんという方がいます。
この岡田武松さんは、観測の事実や実際のデータを全ての根拠とする「観測精神」を唱え、その信念は日本各地の気象台まで浸透し、二度と起きない日々の自然現象を「気象観測」の原点とすることを礎にしています。
この岡田武松氏、当時の中央気象台長を務めた藤原咲平氏の両名に薫陶を受けた、北勲さんという技師が当時の広島気象台に勤め、その目で原子爆弾投下からその後の状況までを目で見、そして記録していました。


記録にとどめること

結果的には通信回線が壊滅していたため、広島から中央気象台へ何一つ情報を伝達することはできませんでしたが、北技師をはじめとした気象台の職員は、4時間ごとの定時の気象観測を続け、そのデータと刻々と変わる気象の状況を当番日誌に記していきました。

原子爆弾による疾病、いわゆる原爆症については詳細を省かせていただきますが、下痢や嘔吐、発熱、倦怠感など、他には年齢や体力差で症状が顕著な人、一日の下痢で済む人など様々です。
また投下直後に被爆をした人だけでなく、その後の残留放射能で原爆症となった人* も数多くいらっしゃいます。

広島気象台の職員の中にも、たまたま市内に出かけ亡くなった人、気象台内で熱線を受けて原爆症の症状が出た人もいます。

* この「その後の残留放射能で原爆症となった人」が浴びたのが「黒い雨」になります。


原爆投下後の記録

北技師は爆発の瞬間を目撃し、その爆風の強さを思い出そうとしました。
風速計は秒速300mを記録した所で壊れてしまっているのでそれ以上の風速だったのは明らかなのですが、閃光から机の下に身を隠すまでを何度か試すとそれには約5秒かかっていたことが分かりました。
爆心地から約4kmの距離から計算すると、実に秒速700mの爆風になります。
(台風の時の風速が秒速50m程なのでその強さは想像外です)
(音速の2倍以上の速さになります=つまり約10km遠方で光った雷の音が少し経ってから聞こえるのと同じように爆風が音よりも早く届いたということです)

 

また原爆の象徴ともいえるキノコ雲が発生したのは、強力な熱線が地上に降り注いだことで地表の温度が「生き物を一瞬で消してしまうほどの高温」まで急激に上昇し、それによって発生する上昇気流と、巻き上げられた土砂が含まれていたと考えられます。

もちろん後日の調査で分かる事ですが、この土砂が放射能を浴び、また放射性の物質を大量に含んだものが、このキノコ雲の成分になります。

 

このキノコ雲。
その実態は夏空の入道雲と同じ「積乱雲」です。


つまり夕立と同じように、モクモクと黒い雲の中では雷が光り、夕立でも起きることのある竜巻も数多く発生したと記録されています。
さらに自然現象で発生した夕立と違い、急激な温度変化で発生したゆえに、尋常ではない激しい雷雨を降らせることになりました。

 

この雲は折からの南東からの風で、爆心地から北西の方向に流されて雨を降らせました。
この雨に、放射性物質を含んだ土砂や家屋の焼け焦げなどが混ざり、「黒い雨」を降らせたのです。

 

図は青いところが広島県、カラーの部分が現在の広島市、小さな白い点が爆心地です。
そして玉子型の黒い実践の楕円(約29×15km)が黒い雨を降らせた地域、その中のグレーの玉子型の楕円(約19×11km)は、その中でも2時間以上にわたって黒い雨が豪雨となった地域で、この黒い雨を浴びたところでは、魚が死んだり、そこの草を食べた牛馬が下痢をしたことなどが記録されています。

 

 

この「黒い雨」について、柳田邦男氏が「空白の天気図」(文春文庫)の中で、この直後にあった枕崎台風の被害とともに書かれています。
最初に書かれたのが1975年ですから、黒い雨が問題とされる(2015年に提訴)まで実に40年もの歳月が流れてしまっています。

(参考 : 文春文庫 柳田邦男 「空白の天気図」 ISBN978-4-16-724020-2 ) 


※ WEB版での追記 [2021.11.24]

地図で表したものは現在の広島市の一部になっていますが、当時は周辺に点在した郡部で町村地区でした。

そのため当時の広島市とその他周辺部との扱い(対応)の違いが、実際の被害と一致しない一因となった可能性も大きいと思われます。

原爆そのものは広島市の海に近いところ(海軍施設があるような地域)を狙ったことは明白なのですが、その後の気象の変化で風によって北西方面に「放射能を含んだ物質降らせた雨」によって生じた被害については、因果関係をつきつめることに時間が掛かったのだと思われます。

ここに放射能症の人がいる、他に原爆の落ちたところがない、症状のある人は黒い雨を浴びている…

充分に説明がなされるはずですが、ここまで長い時間が経つまで対応が決まらなかったことに、裁判の結果はどうあれ、その経過には不満の残るものだったと言えるかも知れません。


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