#132 2020年10月 東京22区 |
ずっと夏日/猛暑日が続いていたかと思ったら、まるで電気のスイッチのON/OFFを切り替えるように、数日の涼しさのあとにむしろ肌寒い日が続いています。 台風14号の余波で、この後また暑い日が戻ってくるのか、それとも秋を感じる間もなく、一気に冬へと向かっていくのでしょうか? 東京さて、今月も東京にまつわるお話を…。 1道1都2府43県が日本に散らばる47県の内訳になりますが、明治維新までの間、現在の東京が「江戸」と呼ばれていたことは、ご存じと思います。 そして明治初期の混沌とした時期を経て、1871年に廃藩置県が行われ、この時に1庁3府43県になり、「東京府」が生まれました。 1庁とは北海道庁、3府は序列順に京都府・東京府・大阪府で、43県は現在と同じになります。 (旧国名から明治維新を経て廃藩置県とその後については #017 2010年5月 1都1道2府43県と教わりましたが… をご覧ください) また当時の東京府は、江戸城を中心とした15区からなり、大雑把に言えば、現在の山手線の内側から東の部分で旧江戸と同じ範囲の東京市で、西側にあたる現在の板橋区、杉並区、世田谷区などは、6つの郡、また東京都下ではいくつもの町村に分けられていました。 後に、静岡県から伊豆諸島を、内務省(政府)から小笠原諸島を、神奈川県から多摩地域を引き継ぎ、19世紀の終わりまでには、ほぼ現在の東京都と同じ形になりました。 多摩地区に多くの「武蔵」が付く地名がありますが、江戸時代では北条氏の知行地である「相模国」の領域だったということです。 また後述する練馬区の一部には、明治以降に埼玉県の志木郡から割譲された地域(大泉町)などもあります。 関東大震災〜第二次世界大戦1932年に起こった関東大震災は、江戸(東京市=15区のエリア)からの人口移動を起こす引き金になりました。 東京市から近隣の郡部へと人口が流出して人口が増加したため、隣接していた6つの郡部にあった町村の合併によって、現在の東京23区に相当する広さの東京市になり、この大きくなった東京市には、35個の区がおかれることとなりました。 江戸城を中心とした15区の時代を小東京、この35区になった時代を大東京と呼ぶ言い方もあります。 この東京市(大東京)と東京府(東京市を含めて、さらに都下の町村・島嶼を含めた現在の東京の範囲)を合併させて「東京都」となる構想は古くからありましたが、それが実現するのは第二次世界大戦の時期になります。 戦時中の1943年(昭和18年)に、首都の行政機能を強化する目的から、東京府と東京市を廃止して、当時東京市にあった35区を特別区へと解体して「東京都」となりました。 しかし、東京都は古い東京府の行政区域も受け継いだため、都下部分(多摩地区)も含まれました。 この35区は戦後に再編・統廃合され、「22区」になりました。 23区ではなく「22区」であることに違和感や疑問を持たれる方へ、またご存じの方には「ああ、その後に23区になったんだよね」という話を続けていきます。 東京23区に足りない最後の1区最初の15区に6郡を加えて再分割して35区になった時に、旧東京市の他の地域の6郡とは、荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡のことでした。 (後に東多摩郡と南豊島郡は合併して豊多摩郡になりました=豊多摩陸橋などに名前の名残があります) この時の北豊島郡には、現在の荒川区・北区・豊島区・板橋区、そして練馬区の計5区が含まれますが、当時は、荒川区・北区・豊島区・板橋区の4区だけでした。 練馬区はまだ区としてはこの中に含まれていません。 当時の区分けでは、現在の練馬区にあたる地域の人口が他と比べて少なく、範囲はとても広くなってしまいすが(また厳密には、細かな区分けの違いはありますが )、現在の板橋区と練馬区のエリアを合わせて「板橋区」の一区として分割したのです。 この時に当時の中新井村・石神井村・赤塚村・志村村・大泉村・練馬町は、将来の発展を期して板橋区に含まれずに一つの区になるよう陳情しましたが、結果として陳情は通らずに一つの「板橋区」として成立してしまいました。 当時の板橋区役所も現在の場所とほぼ変わらない場所にあり、その頃(昭和初期)の練馬地域から区役所までの交通事情を考えると、練馬・石神井から仲宿までの距離は、一日仕事となってしまうほどの、範囲の広い区であったといえます。 当時武蔵野線と呼ばれた現在の西武池袋線では日中に1〜2時間に1本の列車と、池袋での終電は20時台に終わってしまう事、また道路の整備状況も悪く歩く、または牛馬で出向くといっても、大変時間的に不便であるという事情もありました。 練馬区の「独立運動」長年懸念された問題として第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)には、都議会で「練馬/石神井地区の一区独立」が提言されました。 「独立」という言葉に、練馬区地域の強い悲願が感じられます。 東京都としてもこの運動には一定の理解を示していましたが、戦局の悪化による内務省通達で、市区境界の変更は凍結されてしまいます。 しかし、これが戦時中の事であったことを考えると、その最中でもそれほどの熱意をもって板橋区からの分離独立を求めるほど、この問題は地域住民の方たちには切実な事だったと言えます。 そして戦後となり、1946年(昭和21年)には、板橋区会で「練馬区部分の分離独立の意見書」が可決され、「練馬区独立区民大会」が開催されるほど、運動も盛り上がりました。 しかし、35区を22区に圧縮するという東京都の案はそのまま1947年(昭和22年)に施行され、東京都は22区で戦後の再出発をします。 この年は新憲法が制定されるなど、戦後日本の揺籃期ともいえる時期の中で、その年の7月1日に、板橋区議会(新憲法下で区会は区議会となりました)に提出された「練馬支所・石神井支所管轄区域の区新設促進に関する緊急動議」の採決が行われ、賛成が過半数を占めたことで、翌8月1日に練馬は「練馬区」として、板橋区から「独立」した新しい区として出発しました。 練馬区民が掲げた「独立」という言葉は、地方行政ではあまり馴染みのない言葉かも知れませんが、板橋区議会で承認をもらい、練馬の地域住民の人々の熱望が、練馬区のホームページにも書かれた「分離独立」という言葉に凝縮されているものなのだと思います。 【WEB版の追記/2020.10.21】 このように、戦前、戦中、戦後も一貫して提起されてきた練馬区「独立」の陳情ですが、戦中まで、つまり日本語で陳情書を書いていた時の「独立」という言葉には「分離」以上に強い意志を感じることができると、多くの日本人のもつ感性の部分での日本語として響いてきます。 しかし、日本が政治や行政の機能を失い、連合軍の占領下に入った時には、その陳情は当時日本を統括していたGHQに向けて提出しないとなりません。 その時に「独立」という言葉を英訳すると、(おそらく 『INDEPENDENCE』 という単語を使ったのだと思うのですが)、「練馬区が『日本から独立』する」という受け取りをされ、事情聴取にその中心的な存在となる練馬支所には武装した米兵が何度も訪ねて来たという話です。 英語的には『SPLIT』か『SEPARATION』または『DIVICED』を使えば理解が容易かったと思うのですが、つい日本語の特徴である「意思を込める(込めたい)」という部分が前に出て、「独立」という言葉を使った書類になったのでしょう。 戦後間もなくのGHQにとっての「独立」という言葉は、ちょうど今なら「香港が中国から独立するという陳情が出ているので、中国軍や人民解放軍が香港の拠点に武装して向かった」ということに等しいことだったのと言えます。 |
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