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#122 2019年12月 「マリコは病気だ」

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太平洋戦争

毎年12月8日が来ると、「…開戦から○○年経った、今日12月8日には…」とニュースが言うように、日本人にとってこの日は終戦記念日と同じように忘れられない日付になっています。

1945年8月15日。

この日、長らく続いていた第二次世界大戦が、日独伊の枢軸国で最後まで残った日本の敗戦で、終結しました。

この戦争は、世界中が戦場となった最後の世界大戦になったのですが、私たちの記憶は日本が参戦した1941年(昭和16年)12月8日を始まりと思いがちです。

しかし実際には1939年(昭和14年)9月にドイツがポーランドに侵攻したのが始まりで、その後に1941年6月のドイツとソビエトの間で戦闘が始まり、そしてその年の12月に太平洋を挟んで日本とアメリカの戦争(太平洋戦争)が始まって、世界大戦へと拡大していったものです。

参戦前の当時の日本は中国との間の戦争が長引く中で、1939年にノモンハンでのソビエトとの衝突に敗れ、その後にドイツとソビエトの間で締結された「独ソ不可侵条約」の手前、北への進出が出来なくなっていました。

その中で、重慶の蒋介石を倒すために、北部仏領インドシナに前年の1940年に進駐し、これと同じ時期に「日独伊三国同盟」が結成され、次に大東亜共栄圏の名のもとの拡大政策で南部仏領インドシナへの進駐を図ります。

アメリカはヨーロッパでの開戦当時は中立の立場をとっていましたが、ファシズムの台頭に危機感をもち、1941年に「武器貸与法」を成立させ、イギリスを支援する立場を明確にしました。

日本の南部仏領インドシナ、東南アジアへの進出は石油資源を狙ったものでもありましたが、それはイギリス、オランダ、またアメリカの利害ともぶつかるものでもありました。

そのためアメリカとの間で、アジアからの撤退、石油の禁輸などの経済制裁を受けた日本は苦しい立場となっていきました。

日米の交渉は行き詰まり…、そして12月8日の参戦を決意します。


開戦前夜

戦史の中では「日米の交渉は行き詰まり…」というところに行きつくのですが、開戦の直前までアメリカとの間で交渉が続けられていたことは広く知られています。

アメリカは終始一貫しており、「領土保全」、「内政不干渉」、そして「日本軍の中国及び仏領インドシナからの撤退および蒋介石政権以外の不承認(=日本が作った南京政府の否定)」の3つを記した、「ハル・ノート」を1941年11月末に日本につきつけました。

(アメリカのハル国務長官から渡された3通の書類が「ハル・ノート」と呼ばれます)

 

このハル・ノートは、日本としてはとうてい受け入れることができず、12月1日に開かれた御前会議(天皇陛下出席の会議)で「極秘のうちに」開戦の決意がなされました。

ところが、この決定はワシントン駐在の当時の駐米大使であった野村吉三郎大使以下の大使館員には知らされず、開戦をなんとか避けようとしていたアメリカの大使館員は必死の調整を続けます。


「マリコは病気だ」

この大使館員の中に、寺崎英成一等書記官がいました。

彼は前回のアメリカ駐在の時に米国人のグエンドレン・ハロルド(グエン)と結婚し、いくつかの国で大使館員を勤めた後に、再び激動のこの時代にアメリカの駐在員となっていました。

寺崎英成氏には兄に寺崎太郎氏がおり、太郎氏は日本にいて、同じ外務省のアメリカ局に勤めていました。

日本とアメリカの間の連絡は、盗聴されている可能性もあるので、英成氏が渡米するときに、この兄との間で一つの暗号が取り決められました。

英成氏はグエンさんとの間に、1932年8月23日に女の子を授かっていました。

国際結婚が珍しかった時代に、まだお腹にいる時から「ブリッジ(かけ橋)」と呼ばれていたその子は「マリコ(マリ子)」と名付けられました。

太郎氏と英成氏は、この「マリコ」という名前を「アメリカ側の出方、態度、反応の意味」で使うということで、電話連絡の中で頻繁に使いました。

 

「マリコさんはいかがですか?」

(駐兵問題に関する米側態度はどうか?)

 

そして「マリコは病気だ」と言えば、それは米側の態度が膠着していることを表します。

このような寺崎兄弟の尽力も開戦直前まで続きましたが、すでに日本を出港していた日本軍は、12月8日(現地12月7日)に真珠湾攻撃を決行し、太平洋戦争が開戦することになります。


※ WEB版での追記

日米が開戦したのちに、日米双方の大使館員は拘束され、それぞれ本国に交換という形で送り返されることになりました。

寺崎英成氏の家族(英成、グエン、マリ子)は、大使館内で拘束されたあと、いくつかの収容先を転々としてから日本へと送還され、一時期東京の目黒に住んだ後、湘南・伊豆方面、また戦火が激しくなったころには長野県の蓼科で戦中を過ごします。

戦後は焼けてしまった目黒の自宅の代わりに西荻窪に住み、少女(15〜16歳)になっていたマリ子は近くの東京女子大学に聴講生として通いました。

英成は英語に堪能であったために、通訳として天皇陛下とマッカーサーとの会見に立ち会い、相当込み入った会話も交わしていたようですが、当時の記録は今日でも公開されていません。

また英成は高血圧の病を抱えていたため、その後にこの職を離れました。

マリ子は本格的な進学のために、グエンの故郷であるアメリカのテネシー州に母グエンと二人で戻りましたが、結果的にはこれが英成との永遠の別れとなりました。

グエンがアメリカに帰った後に取りまとめた戦前〜戦中〜戦後を通して書いた「太陽にかける橋」という手記は、ベストセラーとなり、映画化もされました。

一方、マリ子は東テネシー州立大学に通い、在学中に知り合った弁護士であったメイン・ミラーと結婚し、メインの支持する民主党の支持に尽力します。


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