#076 2015年8月 栄冠は君に輝く!! |
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日本全国での、7月下旬から8月上旬にかけての連続した猛暑日は、各地で熱中症で多くの方がやられてしまいました。 東京でも同居されている高齢の三姉妹の方が熱中症でお亡くなりになりました。 ところがお盆休みの最中に、ふとした瞬間に感じる風に、少し涼しいものが混じってきたような… まだ気を緩めることは出来ませんが、少しはしのぎやすくなってきたような気がします。 夏休み恒例の、そして夏の風物詩阪神タイガースのファンの方には、以前は「死のロード」と言われ、本拠地を明け渡さなくてはならない「高校野球」には忸怩たる思いもありますが、多くの方には全国47都道府県の代表49校(東京と北海道は2校)で競われる高校野球は、郷土の代表という思いも強く、暑い夏を熱くさせてくれるものがあります。
よく「春の甲子園」「夏の甲子園」と言われますが、正しくは春の甲子園は「選抜高等学校野球大会」、夏の甲子園は「全国高等学校野球選手権大会」で、春は基本的に各地で行われる秋季大会の成績を基準に、選考委員によって選ばれる32校(特別枠含めて36校)の文字通り「選抜」の野球大会、夏は各地の予選を勝ち抜いた49校の、つまり予選初戦から負けなしで頂点まで上り詰める「選手権」を勝ち抜く、高校生の野球大会です。 ちなみに、春の甲子園は毎日新聞社と日本高等学校野球連盟(高野連)の主催、夏の甲子園は朝日新聞社と高野連の主催で行われます。 夏の甲子園100年の歴史高校野球の中継を行なうNHKでも特集が組まれていたので、今年が夏の高校野球の100年の歴史(回数としては戦時中の中断があるため今年が第97回)ということを耳にされた方も多いと思います。 1915年の第一回大会は「全国中等学校優勝野球大会」として開催されました。 大会は当初から阪神甲子園球場で開催されたわけではなく、第一回は大阪の豊中球場、2年後に兵庫鳴尾浜の鳴尾球場、晴れて甲子園で開かれるようになったのは1924年の10回大会からになります。 (甲子園の名前の由来は、2010年2月のかわら版( #014 2010年2月 干支の話 )をご覧ください → この年が「きのえ(甲)ね(子)=干支のスタートにあたる縁起のいい年」であったので甲子園の名前がつきました)
鳴尾球場は、現在阪神タイガース2軍が使っている成尾浜球場と混同されがちですが、そちらは埋め立て地に1980年に作られたもので、当時の鳴尾球場から2qほど離れたところになります。 そして、戦争による中断後も1946年には西宮球場で大会は再開され、その後の学制改革が行われた1948年の第30回大会からは名称を「全国高等学校野球選手権大会」にあらためました。この時に作られた新しい「大会歌」は、現在でも歌われています。 高校野球といえば、耳に残るこの歌栄冠は君に輝く (作詞:加賀大介 作曲:古関裕而)
この歌は夏の甲子園の大会歌であって、春の甲子園では歌われません。 (春の大会歌は「今ありて」作詞:阿久悠 作曲:谷村新司) ああ、この歌も古関裕而さんだった!作曲者の氏名をみて、「ああ(やっぱり!)古関裕而さんだったんだ」とあらためて思いました。 クラシック界からポピュラー界に身を転じた古関裕而さんは、1909年8月に福島でお生まれになり、惜しくも1989年に亡くなられました。 古関さんの作る曲は和製スーザとも言われ、「この曲も?この曲も?」というぐらい、戦前戦後を通じて私たちの心に残るシーンで耳にし、歌われてきました。 作曲された数は5000曲にのぼるといわれていますが、その作曲法は楽器を使わずに、頭の中のイメージで作られたということです。 この「栄冠は君に輝く」のほかの代表的な曲をあげようと思いますが、曲名よりも出だしの歌詞やシーンの方が、「あ、あれ…!」と思いつくかもしれません。 とりわけ古関さんの楽曲は、行進曲やいわゆる元気の出る曲が多いので、いまでもスポーツ中継の時に耳にする機会が多くあります。
古関裕而さんの楽曲は、運動会や国家的行事の時など、私たちの思い出のシーンで、耳に残り愛され続けているものがたくさんあります。 |
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