#030 2011年7月 小笠原諸島のアウトライン |
小笠原諸島と八丈島の中間にある孀婦岩の紹介(#131)はこちらから 暦の上では立秋を過ぎれば「秋」であり、続く暑さも「残暑」になるのですから、皆様には『残暑お見舞い申し上げます』ということになります…。 が、しかし! 暑さは秋めいて涼しくなるどころか、ますます太陽のぎらつきが度を増して厳しくなっているようにも思い、さらに今年の夏は、節電によるクーラー自粛も追い討ちをかけるように、立っても座っても、寝ても覚めても汗が噴出してくるような陽気です。
この際だから、暑さまかせに暑い地方のお話でも用意しましょうか…。 今年のお正月に高尾山に初詣に行き、皆様の健康や商売繁盛を祈念してまいりました。 地続きで行ける「東京都」としては、この奥にはさらに埼玉・山梨と県境を接する雲取山もありますが、いちおう西方の端まで行ってきたわけです。
かたや南に目を向けると、実は東京というのはとても遠くまで広がったエリアだったのですね。 そう、2011年にユネスコの世界遺産に登録された「小笠原諸島」が東京都の本当の東西南の端になります。 小笠原諸島というと父島・母島を代表的に思い出しますが、これは小笠原「群島」として区別され、伊豆諸島より南方にある広い範囲に点在する、30余りの島々を「小笠原諸島」と呼びます。 これには、太平洋戦争(第二次世界大戦)の激戦地となった硫黄島も含まれますし、台風シーズンによく耳にする南鳥島も、その一部として認識されています。 小笠原諸島のアウトライン小笠原諸島は次の島々からなっています。 南方諸島
孤立した島々
南鳥島と沖ノ島は小笠原諸島というには、相当な距離が離れていますので違和感もありますが、ともあれここまでが東京都の範囲になってきます。
※ 沖ノ鳥島は紀伊半島の真南に位置し、東京からの直線距離がほぼ鹿児島と同じ1500km ※ 南鳥島にいたっては東京から約1000km離れた小笠原群島の母島を中間点にして南東にさらに1000kmぐらい離れています
この小笠原諸島の中で人が住んでいるのが父島と母島、硫黄島と南鳥島の4島になります。 ただし一般住民の居住ということになりますと、硫黄島には自衛隊、南鳥島には自衛隊・気象庁・海上保安庁の施設があるだけですので、私たちが普通に行けるところとしては、父島・母島ということになります。 気候的には小笠原群島(むこ島・父島・母島列島)とその西方の西之島は温帯に属し、以南の島々は熱帯に属します。 そして梅雨前線は小笠原の北で発生するため、北海道と同じに梅雨がありません。 Bonin Islands の Boninは無人って意味英語で東京はTOKYOですし、沖縄はOKINAWAと表記されます。 それでは小笠原諸島はというと…
OGASAWARA ISLANDS(おがさわらあいらんず)でよいのですが、狭義に言う小笠原群島(むこ島・父島・母島列島)はOGASAWARAではないのです。 英語圏の地図では、小笠原群島は「 Bonin Islands(ぼにんあいらんず) 」と表記されています。 このBonin(ぼにん)の語源は「無人(ぶじん)」であり、江戸時代に使っていた「無人島(ぶにんしま・ぶにんじま)」がその元になっています。 それではなぜ無人島だったのでしょう?
時は江戸時代にさかのぼります。 当時の紀州の蜜柑舟(みかんぶね)が漂流し、母島に流れ着いたのが、小笠原諸島が日本の歴史に出てくる最初とされています。 彼らは八丈島から伊豆の下田に生還し、下田奉行所へ報告したことから、初めて島の存在が明るみになりました。
これが1670年ということですから、4代将軍家綱の頃になります。 その後に、江戸幕府が漂流民の報告を元に調査船富国寿丸を派遣し、島々の調査を行い「此島大日本之内也」という碑を設置しました。 その時に、ここが無人島(ブニンジマ)と呼ばれたのです。
ところが1727年に小笠原貞任という浪人が、「これらの島々は先祖である小笠原貞頼が発見したものであり、探検の確認と領有権を求める」ことを幕府に申し出ました。 小笠原定頼という人は 信濃小笠原氏で信濃国深志城城主であったとされ、1593年にこれらを探検したとされていますが、幕府の裁定は探検の事実だけでなく、貞頼の存在そのものまで否定し、貞任は重追放の処分となってしまいました。 しかしこの時から今日まで、この諸島・群島に「小笠原」の名前を残すようになったのです。 小笠原の先住民確かに、1670年に小笠原諸島は「日本の歴史」に初めて登場してきます。 しかしその存在は江戸幕府成立よりも昔に、西洋には認識されており、一説には1543年にスペイン人によって発見されていたという話もあります。 1817年にはフランスのアカデミー誌に地図を添えて紹介され、これをきっかけに欧米の捕鯨船が立ち寄るようになりました。 そして1827年にはイギリスがその領有を宣言し、1830年に初めてナサニエル・セボリー他のアメリカ人5人とハワイ人25人がハワイのオアフ島から父島に移住してきます(彼らについては後述)。 日本はそれに遅れること35年余り、アメリカから帰国した咸臨丸を小笠原に派遣したのが1862年のことでした。 そして、居住者に日本領土であることと、先住者を保護することを呼びかけ、彼らの同意を得たのちの、1863年に各国に日本の領有権を通告しました。
↑ ここまでが明治維新より前の時代 ここからが明治維新より後の時代 ↓
この時に八丈島から38人の入植が始まり、最終的には1876年(明治9年)になって、小笠原島の日本統治を各国に通告することで、日本の領有が確定します。 これで小笠原諸島が内務省の管轄となり、日本人37名が父島に定住することになりました。 太平洋戦争をはさんでさて、それではすでに入植していた欧米系およびハワイ系の人たちはどうしたのでしょうか? 実は彼らは1876年に日本の領有が確定したのちの、1882年(明治15年)に居住していた20戸72人全員が、帰化して「日本人」となっていました。 つまり、先祖に白系アメリカ人とハワイ人をルーツにもつ人たちも、八丈島から移住した人たちと一緒に小笠原に最初から住んでいる日本人というわけです。
しかし戦争が激しさを増すにしたがって、欧米系住民を含む全員が本土に疎開し、アメリカの統治下におかれた終戦後は、この欧米系住民だけが帰島を許されて戻りました。 アメリカ統治の下では、英語を公用語とした教育が行なわれましたが、日本への返還後は戦前からの移住者と新しく本土からの移住者との共存が続いています。 この時期に生まれた方たちの中には、自分たちはアメリカ人だと思って幼少期を過ごした方も多いと聞いています。 戦後に英語教育を受けた世代には、日本語に馴染めずに本土へ渡った人たちもいますが、彼らは現在でも小笠原の住民として暮らしておられます。 |
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