7月上旬に西日本を中心に襲った豪雨は、未曽有の被害の爪痕を残しました。
死者と行方不明者を合わせて約250人という災害は、近年では東日本大震災に次ぐ被害です。
結局、大自然の前ではなす術がないことを痛感させる今回の災害は、地球環境の変化を真剣に考えていかなければならないことを、あらためて考えさせられました。
私ごとですが…
ずいぶんと前のことですが、友人たちと一緒に多摩川の上流の方でバンガローを借りて一晩のキャンプに行きました。
当日は雨も降るという予報だったのですが、日程を調整するのも難しく、子ども達も楽しみにしていたということもあり、出かけることにしました。
夕方ごろまでは曇りこそすれ、バーベキューをしたり、川に入って水遊びなどもしましたが、夜になるにつれて降り出した雨は、10時ごろになると、川の音と相まってゴォーゴォーと強くなってきました。
まだゲリラ豪雨という言葉もなかった頃だったと思いますが、ちょうど今どきのゲリラ豪雨の様子で、結局明け方近くまで降り続いていたのですが、川の近くということで、夜通し怖い思いで過ごしたことを思い出します。
あくる日も、川は増水したままで濁っており、何も楽しめることもないので午前中には現地を出て帰ってきましたが…。
結果的には…
「ひどい雨でキャンプも台無しだったね」という感想しか残っていないのですが、今回の西日本での災害を胸に振り返ってみれば、むしろ今になって思い出すぐらい忘れていたことも、本当は偶然に助かっていたようなことではないのかなと思いました。
まず一番の偶然は、「現在」ではなく少し昔の話なので、気象がそれほどの異常さを示していなかったこと。
もし現在だったら降る雨の量が違って、安普請のバンガローで耐えられたかどうだったか。
(少し距離があったとはいえ、川に面した斜面に建っていました。)
次に思ったのは、「判断」する機会がいくつかあったのに、「自分に都合のいい理由」をつけて、先延ばしにしていなかったかということ。
つまり、
『子ども達も自分たちも楽しみにしていること』→「せっかく行くことだし…」
『バンガローを予約していること』→「キャンセルするとお金かかるし…」
『(3家族合同だったので)次に都合を合わせるのが難しいこと』→「今年行かないと来年は受験とかで行けないかも…」
判断する機会
それから当日の朝、天気予報では「午後から雨になり、一部では非常に激しく降る」と言っていたのですが、安易に「そうは言っても夕立のひどいのぐらいだろう…」と、平地での雨を想像していたこともあります。
(行った先は青梅よりももっと奥の少し山深くなったエリアです。)
夕方まで雨が降らなかった天気のこともあり、「言ったほどじゃないね〜」と、気持ちも緩んでいたかも知れません。
雨が降り出した時も、「降ってきちゃったから明日は遊べないかもね」と笑いながら話していたことを思い出します。
夜の10時を過ぎるころ、かなり雨あしも強く、風も出てきた頃になって、「大丈夫かなぁ」とお互いの顔を見合わせながら、少しだけ心配になりました。
「でも管理棟(人)から何も言ってこないから大丈夫じゃない?」
ああ、ここかな…
思い出しながら書いていたら、ここは重要な判断のポイントだったんだなと思いました。
心の中で不安に思い始めていながら、3家族だったことで無意識にけん制しあってその不安を口に出せず、自分たちではないところ(=管理人が言って来ないからという理由)を根拠にして、「大丈夫」という判断をして、夜通しそこに居続けました。
結果的に翌日に早めではあるものの、無事に帰ってきているので、取り立てて話題になることもありません。
ただ、今回の西日本の災害から逃れた家族、逃れられなかったご家族の談話を聞いていると、
「川の水かさが増してきた」
「まさか山が崩れると思わなかった」
「防災無線からまだ避難指示が出ていない」
など、自身の感覚に訴える情報がいくつかあったことをお話しになっていました。
私たちが、社会という様々な人たちと並んで暮らしている中では、「人と違う」「目立ったこと」や「迷惑のかかること」をしないように心がけていますし、そう振舞っていると思います。
ただ今回の災害で運命を分けたのは、
「逃げないとやばい!」
「逃げなくても(まだ)大丈夫!」
という一瞬の判断だったはずです。
おそらく「逃げないとやばい!」と思った人の多くは、その根拠を自分の考えに持っているか、またはよそに住む子どもからの電話で「そうかなぁ」と思いながらも避難して助かっている人の話も聞きます。
半面、「逃げなくても大丈夫!」と判断した人の根拠はどこにあったのかと思いめぐらすと、情報不足や自分の判断の迷いで、気がついたら動けなくなっていた例も多いように思います。
最終的に自分を守るのは微細な情報と自分の判断になります。
そして現代という時代は、自分の上と下にいる「年老いた両親」と「幼い子ども(孫)」を守ってあげることが、ご自身の判断に大きく委ねられているということも、忘れてはなりませんね。
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