#089 2016年10月 単なるお家騒動?#090 2016年11月 日章丸事件(出光興産と昭和シェル石油の統合)WEBでは、2か月分の記事を一つにまとめています。 |
単なるお家騒動ってだけなの?ここ数カ月の新聞紙上でも、昭和シェル石油と出光興産の経営統合(合併)について報道されてきました。 おおまかな話としては、「将来の変化への対応策として二社が経営統合しよう」ということについて、出光興産の一番の株主である創業者の出光家(33.92%=出光株式の1/3以上を保有)が反対をしているという内容です。
この話は水面下では2014年夏頃から、「石油が供給過剰気味で業界内の再編」が必要という認識のもとに、出光興産と昭和シェルの親会社であるロイヤル・ダッチ・シェル社の交渉が始まり、翌2015年の6月に正式表明と11月に合併することを基本方針とした合意書が結ばれました。
この基本合意書には「対等の精神での統合」という言葉があったのですが、ここに出光昭介名誉会長(1981〜93年に社長、2001年より名誉会長)が「違和感」を持たれたことが発端になってきています。 この「違和感」とは、どんなものだったのでしょう? 出光興産の生い立ち出光興産という会社は、1911年(明治44年)に、出光佐三氏(昭介氏は佐三氏の長男)によって福岡県の門司で石油小売りをする会社の「出光商会」として創業しました。 創業当時は日本石油の特約店として機械油を取り扱い、満州鉄道向けの機械油では評判を博します。 途中関東大震災で一度は窮地に陥ったものの、第二次世界大戦に向かう中で石油を扱う会社は成長し、海外事業を行なう会社として1940年(昭和15年)に「出光興産株式会社」が設立されました。 しかし、昭和20年の敗戦の荒波は、容赦なく日本の企業を襲います。 この時に出光佐三氏は、
と訓示をし、多くの企業で人員整理が始まる中で、約1000名いた出光社員の雇用の継続を決めています。 これには「大家族主義」ともいわれる出光の経営理念にもつながる背景があります。 出光興産(昭和22年に出光商会と合併して現社名)は、創業以来2006年まで株式を上場していない「非上場の大企業」として知られていました。 そして江戸時代の商家などにみられるような、経営家族主義であり、終身雇用や年功序列に見られる「日本的経営」の代表的な企業であるとも言えます。 日章丸事件ご存じのように出光は、街のあちらこちらでガソリンスタンドを見かけるような、石油元売りの大手です。 (スタンドは出光の直営というわけではありません=出光はスタンドへ石油を供給する会社)
しかしそれだけの大企業でありながら、「首切りなし」「定年なし」「出勤簿なし」という人間主義に根づいた、まさに信用ベースの「日本的」な企業風土/社風が出光にはあります。 (2006年の株式上場以来、定年制導入など変化してきている部分もあります)
さて、その出光の歴史を振り返ることに話を戻します。 出光興産は1949年(昭和24年)に元売業者の指定を受けます。 室蘭、川崎、神戸に石油の輸入基地となる油槽所を建設(この時点ではまだ出光では国内での石油精製は始まっていません)し、1952年(昭和27年)にはアメリカからガソリンを輸入して「アポロ」の商標で発売しました。 この「アポロ」のマークはいまでも出光のスタンドで使われています。
この時代の日本は、前年にサンフランシスコで講和条約が締結され、主権が認められたことでアメリカの占領下から解放された頃です。 それによって戦争状態が終わったとはいえ、まだ日本の復興はこれからという時代に、出光の主力商品である石油が、とりわけ1950年に始まった朝鮮戦争による特需は、日本に産業復興の大きな機会となったのですが、出光が果たす役割が大きなことは想像に難くありません。
同じこの1950年代(日本の昭和20年代)には、第二次世界大戦後に、世界中の後進的であったいくつもの国々が、旧連合国の植民地からの独立を果たしていきました。
その中の一つに、イギリス(旧大英帝国)の影響下にあったイランがあります。 イランはイギリスの植民地ではなかったのですが、二つの大戦を通じて、ロシア(ソビエト)とイギリスに領土を分割統治されるなどの混乱の中、石油の利権はイギリスのアングロ・イラニアン社(現在のBP=旧ブリティッシュ・ペトロリアム)に全権を握られていました。 つまり、イランからはいくら石油が掘り出されても、イランとイラン国民にはそのお金が落ちないということになります。
そこで、当時のモハンマド・モサッデグ首相は1951年にイランに石油の利権を取り返す「石油国有化法」を断行します。 石油を国有化することで、石油の売り上げはイランの国庫に落ちることになり、ひいてはイラン国民の生活の向上へとつながります。 この石油国有化を推進したモサッデグ首相は、1953年8月にイギリスの秘密情報部の計略で失脚させられ、石油国有化法自体は失敗に終わりますが、この4か月前に世界を驚かせた事件が、出光興産の日章丸二世号によって起きました。 日章丸はどこへ?さて、1951年にイランでは当時のモハンマド・モサッデグ首相が、「石油国有化法」を施行し、イギリスのアングロ・イラニアン社から権益を取り返したのですが、イギリスも既得権として持っていた石油の利権でしたから、これは国際的な紛争に発展しました。
イギリスはイランで産出した石油は自国のものであり、これを売り買いすれば盗品になるとして、「買い付けた外国タンカーは撃沈する」と声明を出しました。 イランとの海上交易はペルシャ湾に限られるため、ここに英国艦隊を派遣し、海上の監視を強める手段に出たのです。
石油は当時から、欧米の国際石油資本(「メジャー」と称されます)が市場を握り、独占的に支配してきました。 その企業理念に「消費者に安い石油を提供する」というのを掲げ、メジャーと対抗してきた出光は、ここで勝負に出ます。
1953年3月に、当時 出光が所有する唯一のタンカー日章丸二世号 を、船長以外の乗組員には行先を告げずに、神戸港から出港させました。 表立ってはサウジアラビアに向かうとしていましたが、目的地はイランのアバダンです。 そのために、途中の寄港地や航路を偽装しながら、日章丸はペルシャ湾の入り口、ホルムズ海峡まで到達します。 そこから先は、当時世界第二位の海軍力を持つ英国艦隊が待ち受ける海域ですが、イランへ向かうという密命を受けていた船長は、拿捕や撃沈、また機雷が浮遊するペルシャ湾をかいくぐり、決死的な操船でアバダンへと入港します。
ここで、待ちわびていたイラン国民の歓迎を受け、「イラン産の石油」を積みこんだあとは、日本へ向けて出港しました。 ただし、帰路はさらなる英国海軍の攻撃にさらされることは免れません。 石油を満載しながらもその反撃をさけ、日章丸は無事に5月に日本の川崎港へと帰ってくることができました。 出光佐三氏の確信もちろん出光の創業者である出光佐三氏は、何の考えもなしにこの行動に出たわけではありません。 この背景には、
ということと、
がありました。
当時の日本は、イギリスやアメリカなどの連合国の占領から解放されても、これらの国々とは同盟関係にあり、独自のルートで自由に石油を輸入することは、非常に困難でした。 つまり、国際石油資本(メジャー)を通じて、ということになります。
これは日本の経済発展の足かせになり、同時にイランが国有化した石油に対して権益を主張するあまりに海上封鎖をしたイギリスの行動に、「国際法上の正当性はない」という判断が出光佐三にはありました。 また、日本の政府とイギリスが衝突することも考えながら、1952年には出光の専務であった出光計助氏(佐三氏の甥)を、第三国経由でイランに秘密裏に派遣して交渉にも当たらせていました。
これが出光佐三氏の心にあったため、唯一の資源と言ってもよい石油を国有化して自国のものとして売ることができずに困窮していたイランへと、日章丸を向かわせる決心になったと思われます。 待ち受けていたのは…石油を満載して5月9日に帰港した日章丸でしたが、積み荷の所有権を主張して、イギリスのアングロ・イラニアン社(メジャー)から出光は東京地裁に「仮差押え処分の申し立て」で提訴されます。 また日本国政府に対しても、イギリスから出光に対する処分の圧力がかかりました。
しかし一方では、イギリスによる石油の独占を苦々しく思っていたアメリカがこれを黙認したり、石油を待ち望んでいた日本の国民が後押ししたため、行政処分などは見送られました。
出光佐三氏は、
ことを裁判長に誓い、そして裁判でも出光の正当性は認められ、半月後の5月末には仮差押え処分の申請は却下されました。
アングロ・イラニアン社は一度は控訴しますがこれを取り下げ、結果的には出光が裁判には勝ちました。 出光とイラン日章丸事件は、 「敗戦国であった日本の民間の船が、大英帝国海軍を相手に、勇猛果敢にイランまで石油を買いに来てくれた」 ということで、イラン国民を勇気づけ、今日でもなお多くの親日家を生みました。
「イランでは国民が知る船が3つある。」 「 一つは「ノアの方舟」、そして「タイタニック号」、三つめは「日章丸」だ。」
という逸話もあるぐらい、日章丸がイランに与えた影響は大きかったと言えます。 そして、今日でも出光興産の企業ポリシーになっている「人間尊重主義」の精神は、当時のイランの窮状と日本の産業復興に寄与しようとした、出光佐三氏の人柄を表しているといえましょう。 【番外編】 本編では書ききれなかったことを続けます。 またイスラム教と関係の深いエルサレムについては #101 2017年12月 エルサレム をご覧ください。 イスラム教の二つの国この出光とシェルの合併劇に、どうして出光家は反対の立場をとっているのかというと、複雑な宗教問題も絡んだ背景が見え隠れしています。 イランの国境は、パキスタン、アフガニスタン、トルコ、イラクや旧ソビエト連邦のトルクメニスタン、アゼルバイジャンなどとも接しています。 またペルシャ湾を挟んで、サウジアラビアとも向かい合わせです。 いずれも多くの国民がイスラム教の信者で、その宗教に対する敬虔さは知ってのとおりです。 そのイスラム教の中でも、イランはイスラム教シーア派を国教としており、対岸の大国サウジアラビアは同じイスラム教でもイスラム教スンニ派が住民の多くを占めます。 先日も大使館員の退去など、両国の間では宗教上の問題をめぐってトラブルがありました。 出光とシェル出光がイランと親密な関係があるのと同様に、シェルは対岸のサウジアラビア産の原油を主な供給元にしています。 単に出光とイランの関係が、商売の取引相手以上に、国民に浸透していることと考え合わせると、長きにわたってイランとの関係を維持してきた出光家にとって、トラブルの元になりかねないサウジアラビア産の原油を扱うシェルとの合併には難色を示したとしても不思議はありません。
ただ難しいのは、すでに上場企業となっている出光にとって、会社は出光家だけのものではなく、多くの社員を抱えて日本の資源問題をけん引していかなければならない立場であることです。 会社にとって何が得策かを考える時には、利益も大事ですし、社員の雇用も大事な課題です。 多くの社員の方が合併には賛成の意向という報道もあります。 かたや、会社の歴史の大半を背負ってきた出光家の「思い」というのも、尊重できるなら尊重してあげたいものがあります。
出光家にとっては議決権の三分の一をぎりぎりで確保している「いま」が最後の防波堤であり、合併によって株主比率が下がれば、大株主であっても議決に反対できる立場を失うことになります。 利益や社会的責任を主軸に語るには、本来会社がもっている「人(思い)」の部分が根深くうかがえるこの問題は、想像以上に複雑化するのではないかと思っています。 |
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