この冬は暖冬だといいますが、本当に年が明けてもしばらくの間は、いつもの年よりも着る物を一つ薄くしても過ごせるような日が続いていました。
ところが…!!
一気に寒波到来で、それまでが暖かかった分が、余計に寒くさせているように感じるほどです。
ま、これが普通の冬といえばそうなのですが…。
板橋・工業の街
近年では、区内を走る路線も東武東上線のほかにも、JR埼京線、地下鉄有楽町線や三田線などで、都心への通勤通学にも便利なことで、住宅地としての発展が著しい町、板橋区です。
昨年は戦後70年という節目の年でもありましたが、この板橋区を含め、東京の街が大きく変貌をしたのは、やはりあの戦争で焼け野原となったところからの立ち直るのに、1964年の東京オリンピックと高度経済成長の時に、多くの人が東京へと集まってきたことも大きな要因だったと言えます。
古い文献を調べていると、もともと板橋区というのは東京近郊にありながら、まだまだ未開発の土地も多く残っていました。
それでいながら、北には荒川という水運に便利な川があり、区内には石神井川などで地下水を使えるという水利の利点もあったことから、明治期以降に工業を誘致する条件がそろっていました。
幕末に幕府によってつくられた火薬工場は、のちに官営となり1923年(大正12年)の関東大震災でも比較的被害が少なかった板橋区は、志村近辺が工業甲種特別地域に指定され、危険物を取り扱う工場や化学工場が移転してきたりもしました。
このような歴史は、この第二次世界大戦に至るまでに、板橋区が軍需工場の地域として栄える下地になっていったと言えると思います。
現在では主にレジャーで使う双眼鏡も、日清日露戦争の頃には、まだ国産化をすることができない精密な光学兵器で、明治時代の終わりごろに日本光學工業(現在のニコンの前身)がやっと国産化にこぎつけたというところです。
昭和の時代になり日増しに軍国化が進む中で、この光学機械(兵器)が不足するようになると、技術を持つ会社が、巣鴨や志村などに光学兵器の工場を建てるようになりました。
ここに、板橋の光学産業が芽生えていく礎が
築かれていきます。
その中の一つで…
メイドイン板橋
光学機器の製造ノウハウを持っていたのは日本光學工業だけではなく、今日では別の精密機器で有名な「服部時計店精工舎」も優秀な技術を持っておりました。
その下請けに西巣鴨(現在の豊島区上池袋)に勝間光学機械製作所という工場があり、服部時計店ではそこを買収して人材・設備を引き継ぐ形で「東京光学機械(現在のトプコン)」が設立されました。
そして設立後のすぐの時期に、志村本蓮沼に新工場を建て、これが現在のトプコンの本社工場になります。
この昭和初期の時代を境に、日本は日中戦争の歴史へと突入していくのですが、そうなると兵器としての双眼鏡の需要が高まってきます。
ところが、日本光學(品川=城南地区)、東京光学(板橋=城北地区)という2つの会社だけでは、軍の需要をまかない切れないため、陸軍の要請で「陸軍八光会」という企業グループが組織されました。
この8社(のちには13社(12社?)まで増えますが)には、現代で日本を代表する光学機械のメーカーがいくつもあります。
◎ 旭光学 (ペンタックス→現リコーイメージング)
・ 榎本光学 (富士写真→現富士フイルム)
・ 高千穂光学 (オリンパス)
◎ 東京光学 (トプコン)
・ 日本光學 (ニコン)
・ 八州光学 (ヤシカ)
◎ 大和光学 (キヤノンに吸収)
・ 富岡光学 (京セラに吸収)
また東京光学に買収された勝間光学の勝間氏がのちに
◎ 富士光学
を設立しており、この中で「◎」のついた会社は、いずれも板橋区内に工場をもつ企業でした。
しかし終戦後には、これら軍需目的の工場は閉鎖を余儀なくされましたが、この板橋地区には多くの工場で働く技術者の人たちがおり、たくさんのノウハウが蓄積されていました。
日本に進駐してきた米軍は、このすぐれた日本の双眼鏡を買い求め、板橋の技術者たちはその需要にいち早く応えたのでした。
昭和37〜38年ごろには、日本の主要精密機器の出荷額の70%は板橋で製造していたといわれ、海外では「メイド・イン・イタバシ」で名前が通るほど、その性能や精密ささは誇れるものだったと言えます。
この光学の歴史ある板橋に、青色発光ダイオード(LED)でノーベル賞を受賞した中村修二氏の会社が、横浜から移転してくるということが先日発表されました。
次世代への大きな技術革新を示した青色LEDが、光学技術の粋ともいえる板橋の地でさらに大輪の花を咲かせることを想い、再び広く板橋の名前が世界に響くことを願っています。
|