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#058 2014年2月 昨年話題の2本の映画

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昨年話題の2本の映画

昨年の夏に公開になった、スタジオジブリの「風立ちぬ」。

そして暮れに公開になった「永遠の0(ゼロ)」。

 

ともに第二次世界大戦(太平洋戦争)に前後した時代であり、共通したテーマは旧日本海軍の主力戦闘機「ゼロ戦」であったことは皆さんもご存じのことと思います。

「風立ちぬ」は、ゼロ戦開発の航空技術者である堀越二郎氏をモデルとした、「ゼロ戦が飛行機として作られるまでの過程」を描いたアニメーション作品であり、「永遠の0」は、V6の岡田准一さんを主役に据えたVFX(Visual Effects)を多用した実写映画で、「ゼロ戦が実際に使われた結末」を描いた作品になります。

 

実はこの両作品よりはるか以前に、柳田邦男氏の「零式戦闘機」という本を読んでおり、いままた改めてこの「零式戦闘機(ゼロ戦)」というものを調べなおしてみました。

ご興味のある方は、「風立ちぬ」に相当する部分がこの「零式戦闘機」、「永遠の0」と同時代になるのが同じ柳田邦男氏の「零戦燃ゆ」になります。

この「零戦燃ゆ」は1983年に東宝にて、柳田邦男氏原作ということで、同名でやはり映画化されていますが、原作は史実に基づいたノンフィクションですが、映画のほうは恋愛や友情といったストーリーが入ってきており、個人的には原作の臨場感をもう少し感じられたらなぁ… という仕上がりでした。

いずれも現在は文春文庫から発売になっています。


零式艦上戦闘機=「零戦」 の誕生まで

日本海軍にこの戦闘機が制式採用となった昭和15年(1940年)が皇紀2600年に当たるため、「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」と名付けられたのが零戦の正しい名称となります。

この4年前に制式採用となった「九六式艦上戦闘機」を、世界情勢からみてさらに上回る 開発要求のもとに作られたのが零戦になります。

この九六式艦戦は脚は格納できず、少し古めかしい印象もありますが、まだ複葉機(二枚羽) の戦闘機が使われていた時代においては、飛躍的に性能を上げた戦闘機でしたが、海軍の要求は、それをさらに上回る性能を零戦に求めたといえます。


堀越二郎という航空技術者

この九六式艦戦は海軍から試作指示が出されたのが昭和9年であったため、「九試単座戦闘機(九試単戦)」として当時の三菱航空機と中島航空機がその試作に当たりました。

採用になったのは三菱製の試作機で、この時に設計主務者だったのが、後に零戦の設計をすることになる堀越二郎氏でした(映画「風立ちぬ」のモデルになった人物です)。

 

東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業したこの技術者は、九六式艦戦を設計した時は若干30歳の若さでした。

この時に盛り込まれた工夫が、空気抵抗を減らすために鋲の頭が外側に出ない工夫と、空中での戦闘性能(空戦性能)を上げるために翼(主翼)の両端を「ねじり下げる」という工夫で、これはのちの零戦にも生かされています。

 

高速性能を求めたこの九六式艦戦は、昭和12年から始まった日中戦争で活躍し、大きな戦果を収めました。

この風雲急を告げる昭和12年に、試作指示が出されたのが、空母からの発着もできるような戦闘機(艦上戦闘機)としての「十二試艦上戦闘機(十二試艦戦)」で、制式採用となった時の呼び方が「零式艦上戦闘機」になります。

飛躍的な進化をさせた九六式艦戦に更なる上積みが要求された十二試艦戦は、その実績から三菱航空機の単社指定となり、軽量化のために1g単位での重量管理、引込脚の採用、より強靭な戦闘能力(20o機銃の装備)などの様々な難題をクリアし、第二次世界大戦中の名機と言われるまでになりました。


日本とアメリカの開発思想の違い

昭和15年に中国戦線に投入された零戦は、類まれな性能で向かうところ敵なしで、日米開戦を迎えます。

真珠湾攻撃には多数の零戦が参戦し、大きな戦果をあげました。

この零戦の活躍はマリアナ・フィリピン戦線でも続き、有名なラバウル航空隊へと引き継がれていきます。

 

しかしこの零戦の活躍は、アメリカにもまた新型戦闘機の開発を急がせました。

当時のアメリカ海軍の主力戦闘機はF4Fワイルドキャットという戦闘機でしたが、より上の性能をめざし、零戦を駆逐するためにF6Fベアキャットが開発されました。

日本には馬力の出るエンジンの開発がネックになったため、その性能を求めるために、機体の軽量化や様々な工夫で空戦性能(格闘戦)を求めたのに対し、アメリカは上空からの急降下で一撃必殺を狙うという戦法を重視しました。

また「攻撃が最大の防御」という格闘戦を重視した考えの裏側で、軽量化のために操縦員を守る鋼板を薄くせざるを得なかったのに対し、操縦員の育成にかかる時間を重視するアメリカは、打ち抜かれない鋼板を開発し、機体が重くなってもエンジンの馬力でカバーするという思想を重視しました。

最後は特攻隊で使わざるを得なくなった零戦は、堀越氏の夢を乗せながら、悲しい末路をたどった悲運の名機とも言えます。


【補足】 もう一つの大きな日本とアメリカの違い。

それは「工業を支える力」ともいえる社会構造の違いです。

零戦を開発した日本の工業力は、確かに目覚ましい技術の発達と言えるものでした。

しかし、この技術力という視点で航空機産業以外に目を転じると、その他の分野では日本の技術力(水準)は、世界と比べた時にまだ未熟な部分がたくさんありました。

たとえば、零戦の燃料を入れるためのタンクは、翼の中にゴムの被膜としてありましたが、このゴム生産の技術力に劣っていました。

 

そして決定的に「差」となって表れたのは、アメリカの「大量生産」を行なうことのできる社会構造と言えます。

その頃のアメリカでは航空機の産業だけではなく、自動車産業や化学産業の分野などでも、航空機産業と同じぐらいに技術水準があがっていましたが、もう一つ多くの産業に共通で水準が高かったのが「生産に対する技術」です。

一つの型を大量に作る=大量生産の手法というのは、フォードをはじめとした自動車産業ですでに確立されていました。

これを航空機生産に転用すれば、同じ型の戦闘機(F6Fベアキャット)を次々と工場から送り出すことができます。

 

零戦が速度を求めるために「空気抵抗を減らすために鋲の頭が外側に出ない工夫=平頭鋲」になるように加工し、大量生産に不向きな工芸品のような零戦を作っている時に、アメリカは大量生産のために鋲をむき出しのまま、そのかわり速度を出すために高出力のエンジンを開発して対抗します。

戦闘員(操縦士)の技量に頼って、(軽量化のための)薄い鋼板の零戦で、(撃たれれば死ぬ確率の高い)空中戦を戦うことよりも、戦闘員の技量任せにしないで、撃たれても頑丈な重い戦闘機で、仮りに撃ち落されても味方の船に救助されて、再度次々に本土から送られてくる新品の機体で戦場に向かっていくアメリカの戦術では、対抗のしようがありません。

 

国をあげての戦争の時に、自動車工場が航空機生産の現場に転用され、すぐに機体の生産に移れたアメリカと、繊維工場などの軽産業の工場にしか生産拠点を求められない日本(もちろんその生産ラインは作り直さなければ航空機を作ることはできません)との「差」は歴然としていました。

 


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