#057 2014年1月 スリランカという国 |
スリランカという国日本から見ると、ベトナムやマレーシアといったインドシナ半島やフィリピン、インドネシアを挟んだ向こう側のインド洋にある小さな島に、スリランカという島国があります。 人口は2000万人をわずかに超える小国で、1972年にスリランカ共和国、1978年に現在の国名のスリランカ民主社会主義共和国となりましたが、それ以前の教科書では英国の自治領であった「セイロン」の方が記憶に強い方も多くいらっしゃるかと思います。
セイロンの名前の通り、名産品であるセイロンティー(紅茶)は世界で第三位の生産量を誇ります。 現在でも輸出の多くは、このセイロンティーの他にも、天然ゴム、コーヒー、砂糖などが重要なポジションを占めますが、近年では繊維産業や食品加工などの産業も成長してきています。 世界的に少ない仏教国スリランカは、インド半島のすぐ東側に位置しているため、古くからインドの影響を強く受け、また地理的にも現在でもインドとの交易の結びつきも強いものがあります。 しかし、ヒンドゥー教の国インドに対して、国民の8割ほどが仏教徒であり、1972年には仏教を準国教扱いとする憲法も発布されました。 普段はあまり宗教を意識しない私たちでも、葬儀の際には仏教に従った葬儀をすることが多いものです。 その点でも、スリランカは世界的には日本と同じに、数少ない仏教国の一つでもあります。 もちろん国民全部が仏教徒というわけではなく、やはり次いで多いのはインドの影響からヒンドゥー教、またイスラム教やキリスト教徒もおります。
もう一つ特筆すべきは、教育水準の高さです。 スリランカの成人の識字率は90%を超えており、これは発展途上国としては異例に高い水準になります。 小学校への就学率も99%であり、全体的に教育水準の高さには、目を見張るものがあるといえます。 スリランカの歴史スリランカが世界史の中で知られるようになるのは、13世紀にマルコポーロがやってきて、「東方見聞録」に書かれてからになります。 それ以前にもいくつかの王国がありましたが、16世紀にはポルトガル領セイロン、17世紀にオランダ領セイロン、そして18世紀からはイギリスの東インド会社が植民地化を進め、第二次世界大戦までイギリスの植民地時代が続きます。
この不遇の植民地時代に終止符を打ったのが、第二次世界大戦ではイギリスに対峙していた旧日本軍で、イギリス軍の飛行場を日本軍が占拠したことにより、植民地政策から一時的にスリランカ(セイロン)国民は解放されました。 結果的には日本の敗戦により再びイギリスの植民地に戻ることになるのですが、一時的とはいえ解放されたことから、セイロン国民には親日的な人々が多いといわれています。 そして1948年2月、英国連邦内の自治領としてセイロンという国名で独立を果たします。 日本の恩人ともいうべき人物この最初の内閣で初代の大蔵大臣を務めた人に、 ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナという人がいます。 ともすると、スリランカという国名すら忘れがちな小国の大蔵大臣の方ですが、今日の日本の繁栄、戦後の復興を思う時、このジャヤワルダナさんが日本にしてくれた功績を思うと、決して忘れてはいけないお名前だと思ったことが、今回スリランカを取り上げた一番大きな理由です。
戦後に、分割統治論まであった日本が、再度国際社会のひのき舞台に戻る契機となったのは、1951年のサンフランシスコ講和条約になります。 この年、国連に参加していたセイロンの蔵相ジャヤワルダナさんは、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席されました。 この会議では日本の戦争責任を糾弾する雰囲気も高かった中で彼は、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べました。 そして、
「憎悪は憎悪によって止むことはなく、憎悪をすてることによって止む」
という仏陀の言葉を用いて、セイロンは日本に対する戦争賠償の請求を放棄する内容の演説を行ない、多くの国に感銘を与え、各国の賛同のもとに日本が国際社会に復帰できる道筋を作ってくれた功労者なのです。
恥ずかしながら、ごく最近になってこの話を聞いて、そして調べるうちに、いまの日本が自らの力だけで今の地位を築いたのではなく、失礼ながら普段の生活では忘れてしまっている小国の政治家の方に救われてこそ、今日の日本があるのだということを、あらためて教えられました。
ジャヤワルダナさんには、感謝しきりです。
東南アジアでの日本軍の足跡については #087 2016年8月 クワイ川マーチ もご覧ください。 |
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