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#052 2013年8月 憲法改正前夜

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憲法改正前夜

今年も暑いさなか、8月15日が来ました。

ちょうど甲子園では作新学院vs熊本工業の試合の最中に正午を迎え、選手・観客全員が黙とうを捧げました。

 

1945年8月14日に日本がポツダム宣言受諾を決定し、翌8月15日をもって第二次世界大戦は終結いたしました。

この正式な調印は9月2日に戦艦ミズーリ上で行われたのですが、それに先立つ8月30日に厚木海軍飛行場にダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官として降り立ちました。

このマッカーサーを最高司令官とした日本占領は1951年4月まで続くことになります。

 

さて、このマッカーサーが占領下の日本で行なったことはたくさんあり、それらが戦後の日本を形作ったと言っても過言でないほど、世界の中の日本として大きな舵が取られました。

中でも、すべての基礎になるともいえる「憲法改正」は大仕事になりました。

 

当初マッカーサーは1945年10月にGHQ(連合国軍総司令部)を訪問した近衛文麿(戦後の東久邇内閣の国務大臣であるが、戦争直前までの総理大臣)に「憲法改正」を示唆します。

これにたいへん乗り気であった近衛文麿は、憲法学者の佐々木惣一博士他と憲法改正の調査を開始しました。

 

しかし東久邇内閣は直後に総辞職し幣原内閣となったのですが、幣原内閣では近衛氏の調査と並行して、松本烝治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会(松本委員会)」を設置して、憲法改正の調査研究を開始しました。

 

松本委員会に先だって、11月には憲法改正要綱を天皇に奏上した近衛氏であったのですが、時局は近衛文麿の戦争責任を問う(戦犯)方向に傾き、逮捕直前に近衛氏は服毒自殺を図りました。

これにより近衛氏の草案作成は事実上頓挫してしまいます。

また、松本委員会の草案は、翌年の2月1日に新聞に漏れたのですが、その内容が「旧態然としていたことで、GHQには無視された格好になりました。


旧態然とした憲法草案

「旧態然とした憲法草案」とは、どういった内容だったのでしょう?

先の松本国務大臣の言葉がそれを如実に物語っているのかもしれません(松本烝治氏は弁護士でもありました)。

 『新憲法といえども第四条までは絶対に変えない。 (もし変えるような憲法草案を作成したと分かれば自分は殺されるに決まっている…)。

 

どういうことかというと、これは「大日本帝国憲法(戦前までの憲法)」の「第一章天皇」にある最初の四か条を言っており、そこには「天皇は国の元首にして不可侵である」といったことが書かれています。

これは佐々木氏の草案でも同様だったといいますが、今では当たり前に受け入れている「主権在民論(主権は国民にある)」ではなく、旧憲法の骨子である「天皇神権論」を脱していないということになります。

 

しかし、当時の多くの日本人の精神構造を考えれば、天皇を不可侵でなくすという憲法を作ることは、とうてい文章すら思い浮かばなかったことと想像に難くありません。

 

しかしながら天皇神権論のままでは、民主化政策を進めようとする連合国側の意図とは異なるため、どのように新憲法を制定するかということはGHQにとって問題でした。

 

同時にこの頃のマッカーサーには、新憲法制定までの時間がふんだんにあった訳ではありませんでした。

アメリカ本国からは「天皇制の廃止か、あるいはより民主主義的な方向への改革」を指示されていること、また2月26日には「極東委員会」の発足を控え、天皇制の存続に反対するソ連やオーストラリアの意思が占領政策に反映されるようなことになれば、マッカーサーもそれに従わなければならなくなるということが、その背景にあります。

 

天皇制の存続は「戦後統治をやりやすくするため」というのが定説となっているようです。

もし天皇を戦犯として処刑するようなことがあれば、戦後の日本は大きく混乱するだろう、そのためにアメリカ主導の統治ではなく、分割統治になる可能性を生むことになるという危惧もあったようです。


かくして憲法は…

1945年2月23日

GHQと日本の間で会合がありました。

(極東委員会発足の3日前です → つまり、「日本の政府はGHQ案で検討に入っている」という状況ができたという状況にしました)

 

この日、GHQ起草の憲法草案が日本側に手渡されました。

その内容は、列席した吉田茂外相はじめ、当時の日本人にはたいへんショッキングな内容であったはずです。

 しかしそれは議会が一院制であることなどを別にすれば、おおむね現在の憲法に即したものでした。

 

この日から約3週間、連合国と日本の間で協議は持たれましたが、大きな歩み寄りはなく、3月5日の閣議でGHQ案を受諾することになり、翌6日に「憲法改正草案要綱」として幣原内閣によって公表されていきます。


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