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#144 2021年10月 小野田寛郎さん

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「9月になって急に秋めいてきました」
と、うっかりなのかすっかりなのか分かりませんが、先月の冒頭で書いたら、10月になってまるで残暑のような暖かさというより暑いぐらいの日が続いてしまいました。


10月封切りの映画

この10月8日に、『ONODA – 1万夜を越えて』という映画が、各地のTOHOシネマズで上映が始まりました。

題名の『ONODA』の意味するところは、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終戦となった1945年からフィリピンのルバング島で情報収集と諜報活動を続け、1974年にルバング島で消息が確認された旧大日本帝国陸軍少尉・小野田寛郎(おのだひろお)さんのことです。
また1万夜とは、この1945年から1974年までの、およそ30年に及ぶ日数の意味になります。

 

小野田さんの消息が確認される2年前の1972年1月には、グァム島で横井庄一さんも発見されており、このお二人が終戦後もっとも長い時間をかけて帰還した日本兵ということになります。

お二人が帰還されたのは1970年代前半なので、そこからだけでもすでに50年近い年月が経った今から見れば、太平洋戦争そのものはもちろん、その歴史的な事実をテーマに映画化されたとしても、そのこと自体がすでに昔話のように語られる時代になってきました。

 

この映画は、第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でのオープニング作品として、今年の7月7日に上映されました。
映画はアルチュール・アラリ監督の手によるもので、フランスで出版された小野田さんの自伝を原案として、ほぼ日本語のセリフで構成されたものでした。
しかし、上映後の15分に及んだスタンディングオベーションが、この作品の内容の素晴らしさを表しているといえます。


小野田寛郎さん

小野田さんは1922年(大正11年)に和歌山県で生まれました。
旧制中学を卒業の後は、貿易会社に勤めていましたが、満20歳の徴兵検査を受け、地元和歌山の歩兵連隊に配属されました。
ここで甲種幹部候補生に合格し、陸軍予備士官学校、そして貿易会社時代に修得した中国語や英語ができたことから、陸軍中野学校* での教育を受けることになったのです。

この陸軍中野学校というのは陸軍の中でもエリートコースになるもので、そこで学んだことがその後の小野田さんの強固な精神力と職務遂行能力を培いました。

そして小野田さんは、1944年(昭和19年)12月に激戦地のフィリピンに派遣されました。

この時期はすでに連合国側のフィリピンへの上陸が始まっており、駐留する日本の軍隊との間で互いに必死の攻防が行われている頃です。

*  陸軍中野学校での教育内容については、いまだに不明瞭な部分がたくさんあります。戦時中のことではありましたが、諜報やゲリラ戦などについて講義されたことは想像に難くありませんが、その他でも様々な戦闘方法が教授されていたものと推測されます。


ルバング島

ルバング島は、この島の東に広がるフィリピン本当のルソン島マニラ湾の入り口に位置し、首都のマニラから約100kmほどの海上にある島です。
湾越しにはマニラの様子を見る(観察/偵察する)ことができ、マニラ湾に出入りする船を確認できるところです。

西側には現在中国が進出を目論む南沙諸島を含む南シナ海が広大に広がり、フィリピンの防衛上で重要な位置を占めます。
小野田さんが派遣された時期(昭和19年)は、戦局的にも日本が不利になってきた時で、配属された第14方面軍の第8師団長である横山陸軍中将から、「玉砕してはならない。必ず迎えに行くので、3年でも5年でも頑張れ。兵隊がいる間は、それを使って頑張れ。」と訓示を受けました。

 

この訓示がその後の小野田さんの30年間を決めることになります。


日本の敗戦

翌1945年(昭和20年)の2月(配属の3か月後)になると、アメリカ軍の1個大隊が上陸し、圧倒的な火力で日本の軍隊を駆逐していきます。
ルバング島が戦略上で重要な位置になるため、小野田さんはルバング島の山中に逃げ込みながらも、日本が再びフィリピンを奪取しに来る時のために、配下の者たちと共に情報収集とゲリラ戦を続けました。

そして1945年の8月15日(終戦/敗戦)を迎えることになるのですが、この時に任務解除命令が届かなかったがために、小野田さんを含めた4人の戦闘員は、将来再び日本軍がフィリピンやルバング島を制圧下に置くための戦闘が展開される時に備え、「玉砕するな」「何年でも頑張れ」という命令を継続し、そのための情報収集と散発的ながらもゲリラ戦を展開することを忠実に守って過ごすことになるのです。


発見と帰国

仲間の一人が1950年頃に逃亡し、現地で投降したことで、元日本兵の小野田さんと他2名が生存している(らしい)という情報は伝わっていました。
その情報を頼りに、冒険家の鈴木紀夫さんが小野田さんとの接触に成功したのが1974年の2月のことです。

他2名の日本兵はすでに亡くなっており、当時は小野田さん一人だけが文字通り孤軍奮闘の時であったのですが、この鈴木さんの説得に応じ、「上官からの命令解除があれば任務を離れる」と了承しました。

そしてそれから2週間後、小野田さんの元上官である谷口陸軍少佐から書面による作戦解除の命令と、口頭による任務解除、そして帰国命令が伝達され、日本へと帰国することになったのです。

戦争の確たる記憶がない、また実際に体験していない人が日本の人口の大半を占めるこの時代に、小野田さんのように軍属の命令に従って30年もジャングルで戦闘状態を続けるということは、非常に理解しにくいことかも知れません。
しかし、戦時下という一つの時代が、小野田さんのような生き方を普遍的な人間像として作り上げていったのかも知れません。


※ WEB版での追記 [2021.11.24]

以下は私見になりますが…。

小野田さんは当然日本が戦争に負け、1974年と言えばアメリカの占領も終え、沖縄・小笠原も本土復帰をなし、戦後日本が復興してきていることを知っていたと思われます。
なぜなら、情報将校として現地でラジオを修理しながら日本語の短波放送も聞き、現地の新聞を盗み、出来ることをすれば容易く今の世界の情勢が分かっていたはずです。

それなのに、30年間も上官の命令を守り(これは谷口少佐の作戦解除命令からもわかります)、戦闘態勢を継続してきたことに、一種の恐ろしさを禁じ得ません。

おそらく、当時の戦時教育のなせる業だと思うのですが、筋金入りの軍人であったことは間違いありません。

もちろん、小野田さんの生き方を否定するつもりもありませんし、すでにお亡くなりになっており、その後にブラジルに渡って過ごした人生も是だと思います。

映画『ONODA – 1万夜を越えて』は、決して戦争を賛美するものではなく、30年という長い年月をほとんど孤独の中で過ごした、強靭なその精神力を謳ったものです。

 

… いま、3日間でも山中で一人で過ごすなど、想像もできないからこそ、1万日という長い時間が、一人の人間の一生の中で費やされたことは、それが「時代」だっといえばそれまでなのですが、悔しい気持ちになります。 ← ただこれは私見であって、ご本人には充実した人生であられたことを心から願っています。


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