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#105 2018年4月 中山道〜碓氷峠

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今年も各地で桜が満開になりました。

さすがに日光などの関東地方の標高の高い所でも見納めになっていますが、桜前線は現在東北…。

特に有名な弘前の桜などはちょうど今が真っ盛りの見ごろのはずです。

しかしさすがに春の気候で、気温が前日と5度ぐらい違う日が繰り返されていますので、GW前に体調を崩さないように気をつけてください!


お江戸 日本橋…

「あれ? このタイトル、最近も見たはず…。」と思われる方もいらっしゃると思います。

ちょうど100号( #100 2017年11月 お江戸日本橋 )で、「七つ立ち」を説明した時で、少しだけ五街道の話と東海道のお話をしました。

 

東京(江戸)から京都(京)へ上る街道としては、ほぼ海沿いに西に向かう「東海道」を思い浮かべることと思います。

そしてこの東海道は現在も、東海道新幹線、東名・名神高速、在来の東海道本線も多くの貨物輸送など、また名古屋を経由するため大都市間の人と物の輸送における大動脈といえます。

 

当時の東海道(旧東海道)は、現在の東名・名神高速とほぼ同じルートに(名古屋〜大津間が関ヶ原ではなく鈴鹿峠を抜けますが)沿っています。

海沿いは平坦な土地が多いため、その道中で苦労を伴うような険しい峠は、箱根と鈴鹿ぐらいといえます。

その代わり海沿いという同じ理由で、急峻な日本の山岳地帯から流れ出した川は海に近づくにつれ、その川幅を大きく広げます。

当時は現代のような治水の技術も、また氾濫する川を横断する橋もなかったので、渡河は渡し船に頼ることになります。

天候によっては、数日間の足止めを食うことになり、海沿いの最短距離ではあるものの、予定外に時間が掛かる旅となることもあったようです。


お江戸 日本橋…、別ルート

日本橋を起点として各地へ伸びる五街道の中で、京へ向かうルートはもう一つありました。

江戸からは北に向かうイメージなのですが、中山道がそれになります。

 

江戸からの中山道は現在の国道17号とほぼ同じルートで始まり、最初の宿場から「板橋宿」「蕨宿」「浦和宿」…という順に宿場が展開します。

このルートは現在の地名でいうと 高崎〜軽井沢〜佐久〜諏訪〜塩尻〜木曽〜中津川〜関ヶ原〜彦根〜大津〜京都 であり、主だった国道だと17号、18号、142号、19号、21号となりますが、面白いのは県境ギリギリを通りながらも、愛知県内には中山道の宿場が見当たらないことです。

 

東海道53次といいますが、この中山道のルートには69次の宿場町があり、その宿場の数だけ距離も伸びますが、渡河に時間のかかる大河もなく、比較的楽な街道とされていました。

ただし、内陸を通っていくために峠が多く、とりわけ群馬と長野の境になる碓氷峠が最大の難所になっていました。

旧中山道の詳細ルートが GPSCycling というサイトでわかります

 ➡ 旧中山道マップ - GPSCycling


碓氷峠

碓氷峠の標高は 960m あります。

東京から見て向こう側の軽井沢の標高が 939m ですから、峠といっても登って降りるというより、ほとんど登りっぱなしの山道です。

 

それに対して麓になる群馬県の横川の標高は 387m なので、標高差が約 550m もあるのに、横川〜軽井沢間の直線距離は 10km しかありません。

勾配の角度はちがいますが、JR八王子駅から始まる上り坂を歩き始めて高尾山の頂上まで登るイメージです。

新幹線の開通で、1997年に信越本線の横川〜軽井沢間が廃止されるまでは、その

八王子駅から高尾山頂まで淡々と続く急こう配を、(補助の機関車をつなげて、またそれより前の時代は線路に埋め込んだギアを利用したアプト式という方式でなければ)列車が登れないほどの急こう配の峠だった

といえば、少しは想像できますでしょうか…。

 

さて、この廃止された旧信越本線の横川〜軽井沢間は、国道18号に沿ったところを直線的に結んでいますが、この中山道と呼ばれる国道18号は、年代的に言えば「新中山道」と呼んでいいのかも知れません。

江戸時代の中山道は、横川から先の「坂本宿」を過ぎると国道18号から更に北を通るように、右へと分かれていきます。

ここから現在の軽井沢駅とその先の中軽井沢駅の中間あたりで、再び国道18号と重なります。

坂本宿の次の宿場は「軽井沢宿」で、今の『旧軽井沢』と呼ばれている辺りです。

その次が中軽井沢駅周辺の「沓掛宿」になります。


京から江戸へ

今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」は、薩摩から篤姫が13代将軍徳川家定に輿入れする展開に差し掛かっていますが、このあとの14代将軍徳川家茂の妻となる和宮親子内親王は、文久2年(1862年)、京にある天皇家から江戸へと輿入れをすることになりました。

この嫁入りの大行列は、前年の秋に京を立ち、中山道を通って江戸に向かいました

 

この時に、少しでも通行しやすいように勾配を緩くする工事が行われ、これが現在の「旧中山道」として残っています。

 

その後、激動の明治維新を経た後には、明治天皇は同じルートで明治11年(1878年)に北陸巡幸を行ないました。

その際にも旧中山道は改修が行われましたが、急峻な山中の峠道なので、雨でぬかるんでしまった道を、明治天皇は輿を下りて徒歩で行かれたということです。

 

さらにこの北陸巡幸から数年後の明治15年(1882年)には、「碓井新道」と呼ばれる新しい道が旧中山道の南側に完成し、これがほぼ現在の国道18号(旧道)となります。

先にも書いたように、信越本線がアプト式という方法で勾配を登った旧線もこの18号(旧道)に沿って敷設されますが、国道の方はカーブが184ヶ所もあり、相変わらずの交通の難所でした。

そのため、昭和46年(1971年)に18号(旧道)のさらに南側に有料の碓井バイパス(国道18号(新道)=2001年から無料化)を開通させました。

 

江戸時代の徒歩で往来しなくてはならない「中山道」の時代から、碓井新道(国道18号旧道)、碓井バイパス(国道18号新道)、北陸自動車道へと、また鉄道も鉄道馬車からアプト式、補助の機関車をつけて峠を登った信越本線の時代を経て北陸新幹線へと、中山道の趣は変わりましたが、この夏には一度碓氷峠を訪ねてみたいと思っています。


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