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#098 2017年9月 朝鮮半島にある二つの国

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暑い夏もどうやら終わりを告げたようで、朝晩はだいぶ涼しい…というよりも、肌寒さも感じる季節になってきました。

比較的日中は30度を超える日もあるのですが、新聞を配達する時間だと、一枚余計に着ていないと「風邪をひきそうな」陽気です。

この原稿を書いている9月16日。大型の台風18号が九州に上陸しようとしています。


台風も怖いけど…

2011年の東北地震も恐ろしいものでしたし、毎年やってくる台風も私たちに甚大な被害を及ぼし、必ず数名の死者を出すような災害であるといえます。

それでもこれらは天災であって、自然の脅威を前にして人間のなせる業は、わずかな備えと耐えることぐらいのことしかできません。

 

今年の夏、新聞やテレビを賑わしている私たちへのもう一つの空からの脅威…。

繰り返される北朝鮮のミサイル発射です。

今年になってからのミサイル発射は、失敗も含めて実に14回に及び、7月以降だけでも5回の発射と1回の核実験が行われました。

中でもICBM級とも言われている2発は、日本の上空を飛び越えて太平洋に着水し、最長の到達距離は北朝鮮からアメリカの領土であるグァム島に相当する3700kmと推定されています。


朝鮮半島にある二つの国?

このようなニュースが報道されるたびに、北朝鮮の脅威という言葉がニュースのヘッドラインを飾りますが、そもそも北朝鮮というのはどういう国なのでしょう?

 

そしてもう一つの朝鮮半島にある大韓民国も、慰安婦問題や竹島(韓国名独島)問題で日本と深く関わりがあります。

 

またヘイトスピーチに代表されるように、日本の国内では在日と呼ばれる方たちが現実に住んでいて、北朝鮮国籍のお子さんたちの通う朝鮮学校もその標的にされたりしています。

 

「現在、朝鮮半島には南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国という二つの国があり、北緯38度線を国境としています」

おそらくそういう認識の人が数多くいると思うのですが、とても近い二つの国であるのに、その成り立ちが現代の日本人にはよく分かってない気がするので、調べてみたいと思いました。


東アジアの歴史の中で

東アジアには大きく3つの民族がいました。

 

現在の中国に相当する漢民族、朝鮮半島の朝鮮族、日本に相当する大和民族です。

(細かくは日本でもアイヌ族の方や中国でも南や北の方で異なる民族の方もいますが、ここでは大雑把な説明をします。)

 

それぞれの民族は、栄枯盛衰を経ながらも歴史を重ね、おおむね 18世紀〜19世紀ごろには、中国には清国、朝鮮半島には朝鮮王朝、 日本には実質的な政治支配として江戸幕府 がありました。

ただし、朝鮮の李王朝はこの時期には清に服属しており、王制ではあるものの清の属国という扱いでした。

 

この歴史が動き始めるのが、日本の明治維新の後になります。

1894年に勃発した日清戦争に勝利した日本は、清国から独立させた大韓帝国と1904年に第一次日韓協約、1905年に第二次日韓協約を結び、大韓帝国は日本の保護国となります

1906年には韓国統監府が日本によって置かれ、初代統監に旧千円札でおなじみの伊藤博文がなります。

 

そして 1907年の第三次日韓協約で韓国は内政権と韓国軍を失い、1909年にハルビンで伊藤博文が朝鮮の独立運動家安重根に暗殺されたことで日韓間の緊張が高まります

 

これらを経て、1910年に日韓併合条約、いわゆる日韓併合が行われ、大韓帝国(韓国)から朝鮮へと国号が戻されました。

この日本に朝鮮が併合された時代が第二次世界大戦後まで続くことになります。


第二次世界大戦後

戦争終結時のポツダム宣言の文書には、朝鮮が連合国軍の統治下に入る内容になっていましたが、ここに「北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、以南をアメリカ軍が管轄」ということが書かれていました。

 

戦後の冷戦下で、米ソの二つの大国の意思は、1948年に南側で「大韓民国」北側で「朝鮮民主主義人民共和国」に米ソそれぞれの国の意向を汲んだ傀儡政権を樹立させました。

 

それでも1950年までは北緯38度線を境にしていましたが、この年の6月に北朝鮮軍が38度線を越えて南侵したことから、「朝鮮戦争」が始まりました。

 

この戦争は3年間続き、1953年の7月に38度線に近い板門店で、「停戦協定」が結ばれました。

現在、北朝鮮と韓国の間に大きな戦闘状態はありませんが、この停戦協定のまま今日まで続いているので、公式には両国間は「戦争中ただし停戦中」ということになります。


北朝鮮の社会体制 

第二次世界大戦後、ソビエトとアメリカに分割統治されていた朝鮮半島ですが、北側ではソビエトの支援を受けた金日成(キムイルソン)が大きな力を得ていきますが、本格的に力を得たのは1948年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の建国時の首相就任、翌年の朝鮮労働党の中央委員会委員長への就任になります。

 

ソビエト型の社会主義体制であるマルクス・レーニン主義をさらに発展させたとする「主体(チュチェ)思想」を国の理念として推し進めました。

 

その集中された権力は「民族には首領となる単一の指導者が必要」という考えの北朝鮮指導部では、「継続的な革命のために首領の後継者となる者は、最も優秀で最も首領に忠実な者」がなるべきということで、金日成の後継者に金正日を、そしてその死後に金正恩が現在その地位につきました。

 

その優秀で首領ん忠実な者が金正日であり金正恩であったということで、「世襲で後継者が決まるものではない」という立場をとっています。


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