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#087 2016年8月 クワイ川マーチ

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なかなか梅雨明けの気配がなかった7月でしたが、月が変わったと同時に、一気に盛夏!! と思う間もなく、暦の上では「立秋」となってしまいました。

ですが、秋の気配どころか連日の猛暑日で、熱中症の被害にあわれている方が毎日100人単位でいらっしゃいます。

他の主要都市に比べると、いくぶん東京は気温も低いようですが、くれぐれもこの暑さにはご注意ください。


暑い季節=忘れられない日

それは日本だけではなく、世界の20世紀の歴史においても、大きな転換点になった「8月15日」の終戦記念日です。

ただ、終戦記念日(あるいはニュースなどでは「終戦の日」)という名称は、第二次世界大戦に敗けるという形で終戦を迎えた日本からの見方でもあり、果たして正しい名称はというと「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」になります。

(ただしこの名称が閣議決定されたのは1982年ですから、戦後だいぶ経ってからだったのですね)

 

当時の連合国の多くの終戦の認識は、米戦艦ミズーリ上でポツダム宣言受諾に調印したことで「終戦」になったという翌9月2日であることが多いようです。

この辺は国によって異なり、中国では9月3日、韓国と北朝鮮では日本の支配から解放された8月15日が終戦記念日になります。


いつも忘れないでおきたい

現代から振り返れば「無謀」とも思える第二次世界大戦の一つの引き金を引いた日本ではありますが、第一次世界大戦以降の時代における世界各国のエゴや、人々が体感した経済的な閉塞感の中で、その打開を求めて東アジアへと進出していったのは、やはりその時代の熱気だったのかもしれません。

 

今年(2016年)は戦後71年になりますが、現代でも様々な見解や考えが飛び交っているという事は、まだ歴史として検証が出来てはいないともいえましょう。

あと何十年か経った時に、あの戦争の意味と戦後社会の評価が出されてくると信じています。

 

ただ一つだけ確かなものがあるとすれば、それは戦勝国や敗戦国、あるいは民間人や軍人ということではなく、現実にその戦争で犠牲となった方々が、とてもたくさん居たということです。

戦争で命を落とさずに済んだ方でも、最愛の人が犠牲になったり、自分の身を守るために銃の引き金を引かざるを得なかったという事実は、その後のもっと多くの人の人生に、大きな影響を与えたという事は想像に難くありません。

2014年1月のかわら版( #057 2014年1月 スリランカという国 )で、スリランカのジャヤワルダナさんの記事を思い出してください。

 

小国の国連大使であった彼は、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べました。そして彼が用いた仏陀の言葉を、改めて記しておきたいと思います。

「憎悪は憎悪によって止むことはなく、憎悪をすてることによって止む」 


クワイ川マーチ

小学校の音楽の時間なのか、運動会の入場行進で聞いたのか、その記憶を思い出せないのですが、「戦場にかける橋」という映画の挿入歌に「クワイ川マーチ」というのがあります。

(「クワイ川マーチ」とネット検索すれば動画が出ますので、聞けば「ああ」って思う歌です)

当時はその陽気な旋律を口笛で真似していましたが、あらためて「戦場にかける橋」は、いったいどこに掛けた橋なんだろうというのが、実は今月のテーマを考えるきっかけでした。

 

この映画のテーマになったのは、日本軍がシンガポール方面の制海権が危うくなったために、ビルマ(現ミャンマー)とタイの間に鉄道を建設することが元の話になってきます。

中国語の泰(シャム=タイ)と緬甸(メンデン=ミャンマー)の文字を取って泰緬鉄道(たいめんてつどう)と名付けられたこのルートは、クワイ川(当時はメクロン川)に沿って途中に300余りの橋をかけ、ジャングルを抜けるという熾烈なルートでした。

 

約400q(東京〜京都間)に渡る建設には、5年が掛かると言われていましたが、日本軍は火急のルート確保が急務であったため、1942年6月に着工し翌43年10月までの約1年半でこれを完成させました。

 

 

しかしそれだけの短期間で完成させるためには、日本軍の労力だけでは到底無理な話です。

日本軍(陸軍)の建設部隊からは12,000人が動員されましたが、それ以上に労働力として使われたのが、連合国側の捕虜62,000人、また現地で募集した労働者がインドネシア、マレーシア、ビルマ、中国、インド、タイなどで集められ、その数は合計20万人以上(他の勘定では30万人)にのぼると言われます。

 

この地図でもわかるように、国境付近の部分=熱帯のジャングルを抜けていくルートには、マラリアやコレラなどの風土病に加え、雨季の豪雨やスコールなどの自然条件、また戦時下であったために十分な食料が与えられず餓死するなど、多大な犠牲者が出ました。

一説では労働に携わった者の半数が死亡したとも言われています。

 

さらにこのルートを完成させたくない連合国の爆撃などで、多くの捕虜も同胞の攻撃で犠牲になったりもしました。 今では一部を残して廃止された泰緬鉄道ですが、労働力を使う方(日本軍)も使われる方(捕虜、現地の人々)も、戦争に翻弄され尊い命を失くし、人生を狂わされた、一番の犠牲者であったのでしょう。


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