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#028 2011年6月 カール・ユーハイムの話

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原発・原子力と話題を続けてきましたが…

今月もまた原子力の話…、といっても原子爆弾から始まるお話を見つけてきたので、そちらを掲載してみたいと思います。


昭和20年8月6日、広島

私たち日本に住む人間にとって、忘れてはならないのが、人類史上初めて原子爆弾が広島に落とされたこの日であり、そしてその傷跡を現在にも伝えているのが、その象徴ともいうべき原爆ドームであると思います。

この原爆ドーム…、当たり前ですが元々「原爆ドーム」という名称の建物ではありません。

広島県物産陳列館」として建てられ、原爆投下時には「広島県産業奨励館」というのがその名称でした。

日清戦争以降に経済規模の拡大とともに、広島県産の品々の販売経路を拡大していくために、1915年(大正4年)に竣工した建物です。


広島県物産陳列館として

その竣工から4年後、この広島県物産陳列館で、ある催しが開催されました。

「似島(にたじま)独逸(どいつ)俘虜(ふりょ)技術工芸品展覧会」がそれです。

似島というのは、現在の広島市南区似島になり、当時その似島の似島検疫所内「俘虜収容所」に収容されていたドイツ人捕虜による、技術の披露と製造販売の展覧会です。

ここで、現在でも私たちになじみの深い、そしてとても有名なお菓子が、日本で初めてお目見えしました。

ドイツ人捕虜であったカール・ユーハイムが、「バウムクーヘン」をここで初めて焼いて日本人の前に出したのです。


当時の歴史的な背景

日独伊といえば、第二次世界大戦の時の枢軸国、日独伊三国同盟で結ばれた同盟国という認識が高いのですが、1910年代といえば、ロシア革命より前の第一次世界大戦の最中。

世界の各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国と、三国協商を結んでいたイギリス・フランス・ロシア(旧帝政ロシア)を中心とする連合国の2つの陣営に分かれ、日英同盟でイギリスと関係のあった日本も後に連合国側として参戦していきました。

つまり、第一次世界大戦当時は日本とドイツは敵国同士の関係になり、ドイツへの宣戦布告の後に、ドイツの祖借地であった中国の青島に日本軍が攻め入りました。

 

カールは、まさにここ青島でバウムクーヘンが評判の喫茶店「JUCHHEIM'S」を営んでおりましたが、非戦闘員でありながら日本軍に捕らえられれ、捕虜として日本に連れてこられたのでした。


カール・ユーハイム

1914年8月にドイツに宣戦布告した日本の青島でのドイツとの戦闘は、その年の11月には青島を陥落し、それから1年後の9月にカールは日本軍の捕虜となり、大阪俘虜収容所へ移送されました。

さらに1917年2月にインフルエンザ予防のために再度広島の似島検疫所に移送されます。

そして1919年の「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で、持ち前の菓子職人の技術を生かし、バウムクーヘンを作るのに至るわけです。

この捕虜として捕らえられた時に、奥さんのエリーゼは妊娠中で、大阪での捕虜時代に長男のカールフランツが青島で生まれています。

第一次世界大戦は1918年11月にドイツと連合国の間で休戦協定が結ばれたことで事実上終結し、それにより日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになります。

多くのドイツ人は本国に帰ることを希望しましたが、一部の人は日本に残ることを希望し、またカールも妻子のいる青島に帰ることを希望しました。

しかし、当時の青島ではコレラが流行っていたこともあり、青島に帰ることをあきらめたカールは、東京・銀座に開店した喫茶店「カフェー・ユーロップ」に、「製菓部主任」として勤めることになりました。

そこにカールは妻子を呼び寄せ、親子の東京での暮らしが始まるのです。 

カールの得意な菓子はバウムクーヘンで、そのほかにもプラムケーキなどが高い評判となり、著名人からも愛される菓子店となりました。


横浜へ、神戸へ…

カール の カフェー・ユーロップ での契約期間は1922年2月までで、その後の身の振り方を考えていた時期に、現在の横浜市中区山手町でロシア人が売りに出していたレストランを買い、3月開店させました。

妻のエリーゼは近くに手頃な価格で昼食を食べられる店がないことに目をつけ、ドイツ風の軽食も出す喫茶店にしたところ、これが当たり、店は大いに繁盛しました。

 

ところが、わずか1年半後の1923年9月1日に起きた関東大震災で店は焼けてしまい、わずかばかりのお金を残して カール は全財産をなくしてしまいました。

失意のうちに、神戸の知人宅に身を寄せることになり、カール はここで再起を図ろうとします。

 

カール は神戸三宮に救済基金で借りた資金を元手にして、喫茶店「JUCHHEIM'S(ユーハイム)」を開店することになります。

当時の神戸には外国人が経営する喫茶店はなく、多くの外国人客でにぎわったこと、また1年もしないうちに カール の菓子を仕入れて売る店も増えてきて、店は順調に繁盛していきました。

この神戸時代には、やはり日本では初めてとなる「マロングラッセ」も販売されました。


時代は暗闇の時代へ

順風満帆に繁盛していた カール の店「JUCHHEIM'S」も、第二次世界大戦の勃発とともに、菓子をつくる材料にも事欠くようになり、さらに太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなってしまいました。

1944年には「JUCHHEIM'S」の賃貸契約を打ち切って工場だけを稼働させていましたが、1945年6月の空襲で工場も機能しなくなり、一家は神戸の六甲山ホテルに引きこもることになりました。

 

そして、終戦記念日となる8月15日の前日の14日。

カール はホテルの部屋で椅子に座り、妻のエリーゼと語らいながらのうちに、息を引き取りました。

 

日本にバウムクーヘンを教えてくれたこの カール・ユーハイム 。

その名は 洋菓子店「ユーハイム」にいまも親しむことができます。

そして、焼けた神戸の工場も鉄筋コンクリートの建物は無事だったので、終戦後に白系ロシア人の菓子職人ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフが建物を利用して菓子やパンを製造しました。

ユーハイムとモロゾフの意外な接点が日本のお菓子の歴史にあります。

 

※ #050 2013年6月 ケーキのお家♪ と #097 2017年8月 坂東英二さん も合わせてお読みください。


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