#097 2017年8月 板東英二さん

 

結局今年は梅雨は梅雨らしくないまま終わってしまいました。
そのかわりその反動のように、梅雨が明けてからの雨が続いています。なんでも、梅雨の期間中に降った雨が約110mmだったのに8月中旬までの降水量は約150mmにもなるそうです。
気温も低く冷夏が続くと、夏のレジャーがふるわないばかりか、農作物への被害も心配です。


★ 板東英二さん

最近はテレビでお見掛けする機会が、少し減ってきたような気もしてお元気にされているのか気になるところですが、バラエティ番組の「いじられキャラ」でおなじみのタレントさんに「板東英二さん」がいらっしゃいます。
にこやかなちょっとおかしな関西弁のオジサンというイメージがすっかり定着している板東さんなので今では忘れられがちですが、59年前の夏の甲子園で徳島商業のエースピッチャーとして準優勝し、その後に中日ドラゴンズで活躍されたということをご存知の方も多いと思います。
ドラゴンズ時代も435試合に登板し、11年間の活躍で77勝65敗という立派な成績で引退されたので、プロ野球選手としても一流の野球選手と認められる成績だったといえます。

さて、この板東英二さんが夏の甲子園に出場されたのは徳島県代表の県立徳島商業高等学校の選手だったのですが、板東さんは育ちこそ徳島でしたが、1940年(昭和15年)に生まれたのは満州の虎林というところになります。
戦争に敗れ、満州を追われるように引き上げてくることになった先は福岡で、小学校に上がる時は神戸だったそうですが、お父様の復員によってその故郷である徳島県板野郡坂東町に引っ越しをされました。

板東さんが坂東町へ? というのはまったくの偶然のようですが、この板東町にあった、かつての「板東俘虜収容所」内の引揚者用住宅で暮らすことになります。


★ 俘虜収容所

「俘虜(ふりょ)収容所」と書くと難しい印象を受けますが、戦争で「捕虜」となったり、その後その国が降伏してもすぐに本国に帰ることができない人も含めて「俘虜」として収容した施設になります。
要は、敵国の兵士を収容した施設が「俘虜収容所」で、その用途を終えた収容所を、板東では引揚者の住宅に転用していました。

さて、古くからかわら版を読んでいただいている方には、この「俘虜収容所」という言葉が出てくるのは二回目になります。
一回目は広島の「似島俘虜収容所」で、日本で初めてのバウムクーヘンの話ということで、カール・ユーハイムのお話をした時でした。

第一次世界大戦で、当時敵国のドイツの租借地の青島に日本軍が攻め込み、そこで喫茶店を営んでいたカール・ユーハイムが捕虜として日本に連れてこられた先が「似島俘虜収容所」だったという話でした。


★ 板東俘虜収容所で日本で初めて…

板東英二さんの家族が板東俘虜収容所で暮らし始めた時から、さらに歴史をさかのぼってみます。

この板東俘虜収容所が作られたのも、似島の時と同じ第一次世界大戦の頃になります。作られた理由も同じく、中国・青島のドイツ兵の収容が目的でした。
しかし実際に板東が俘虜収容所として使われたのは1917年から1920年までの約3年間だったことから考えると、板東英二さんが住まわれた頃はすでに25年以上経って建物もだいぶ傷み、「旧板東俘虜収容所」と呼ぶ方が正しいかもしれません。

使われた期間が3年間と短かったのですが、この3年間は日本にとっては異文化を吸収するのに、貴重な3年間であったといえます。

カール・ユーハイムが、日本で初めてバームクーヘンを似島俘虜収容所で焼いたことでバームクーヘンが日本に根付いたように(そのお披露目がいまの原爆ドーム=広島県産業奨励館)、各地の俘虜収容所では、日本とドイツの間でたくさんの文化的な交流が行われました。
捕虜に対しての「人道的な扱い」を定めたハーグ陸戦条約の捕虜規定を背景にして、日本の捕虜に対しての待遇は他国と比べても十分なものだったようです。
戦時中に日本にいたドイツの民間人からの寄付や近在での労働などでお金も調達できましたし、収容所内の日本人経営の売店でも自由に買い物もできました。

この捕虜たちは、もともと民間からの志願兵が多く、様々な技術を持つ人たちがたくさんいました。
そのことを背景に、収容所内には演劇団やスポーツチーム、オーケストラなどが結成され、日独双方で文化的な交流が数多く行われ、お互いの交流は深まっていきました。


★ なじみ深いあのドイツの作曲家

誰しもが頭に思い浮かべるのがルートヴィヒ・ファン・ベートーベン。
彼の数ある楽曲の中でも、私たち日本人にもっともなじみ深いのが大晦日になると必ず演奏される「歓喜の歌=交響曲第九番」です。

この「ベートーベン第九が初めて日本で全楽章演奏された」のが、この板東俘虜収容所の捕虜たちの手によるものでした。

似島俘虜収容所のカール・ユーハイムの手によったバウムクーヘンしかり、この板東俘虜収容所のベートーベン第九しかりと、現代の日本の生活には当たり前のように入り込んでる食べ物や習慣が、ほんの100年ほど前にドイツ人の(しかも敵国の)捕虜からの文化交流から生まれたものだったのです。

板東俘虜収容所は1978年までにすべて解体されましたが、民間に払い下げられたいくつかは倉庫や牛舎として残り、国の登録有形文化財に登録されています。 また、板東俘虜収容所関係の資料はユネスコ記憶遺産への申請をめざして、徳島県では2019年度までの予定で予算化がされているということです。