#038 2012年5月 1972年という年

 

 この原稿を書いている今日=5月15日 〜

「五・一五」という並びで歴史の教科書で思い出すのは、「二・二六事件」の影で忘れられがちですが、1932年に起きた「五・一五事件」です。

これは、大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件で、武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺したという、戦争前夜につながる痛ましい事件でした。

今回、この5月15日にちなんで書こうとしたのは、それから40年後…1972年5月15日。

日本にとって、第二次世界大戦の占領が終わったともいえる、「沖縄返還の日」です。

激戦の地となった沖縄には、いまも戦争の爪あと、そして米軍基地が多数残っている現実を考えれば、本当の意味ではまだ戦後が続いているのかも知れませんが、本土復帰を果たすという意味では、大変重要な日となったわけです。

 

※ 2017年5月の「コンビニ記念日」もご覧ください。


 σ(・・*)ワタシ の 虎の巻 〜

こういうコラムを書いている時に、いつも参考にするものがあります。それは講談社で1997年に週刊で刊行されていた「日録20世紀」という写真誌です。これは一年を一冊として、全部で100冊出されました。

今回も沖縄返還の5月15日を調べたく、その1972年版を引っ張り出してみたのですが…。


この1972年という年(つまり今から丁度40年前)は、日本においていろいろなことがありまして、あれもこれも、この年に集中していたのだなぁと思い出しました。

そこで、今回は沖縄返還の5月15日にこだわらずに、この1972年という年をご紹介してみたいと思います。


 1972年 / オリンピック 〜

うるう年に当たるこの年は、夏冬のオリンピックが開催されました(現在とは異なり、冬季オリンピックもうるう年の開催でした)。

トワ・エ・モアの歌う「虹と雪のバラード」に、アジア初の冬季オリンピック開催という夢をのせて、札幌オリンピックが開催されました。なによりも印象に残っているのは、「日の丸飛行隊」と異名をとったスキーのジャンプ競技です。

笠谷/金野/青地の3名で金・銀・銅のメダルを独占する快挙に日本中が沸いたものでした。

 

かたや、夏季オリンピックは悲惨な思い出とともに語られることになります。
夏のオリンピックはドイツ(当時は西ドイツ)のミュンヘンでの開催になりましたが、イスラエル選手団の宿舎をパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のゲリラ組織「黒い九月」が急襲し2名を殺害、人質9人全員とゲリラ3人が銃撃戦の末に殺害されるという、オリンピック史上にも例のない事件となりました。


 1972年 / 浅間山荘 〜

2002年に役所広司さんの主演で「突入せよ!浅間山荘」で映画化され、思い出された方も多いと思います。

この「浅間山荘事件」は、札幌オリンピックの余韻も冷めない2月19日に、追い詰められた連合赤軍が軽井沢の河合楽器の保養所「浅間山荘」に立てこもり、2月28日に機動隊の突入によって事件は解決になるのですが、これを契機に新左翼といわれた過激な活動は急速に衰えを増していきます。

この事件のもう一つの側面は、同士といわれた仲間に対するリンチ殺人という悲惨さです。これは、世間に大きな衝撃を残しました。


 1972年 / 日中国交回復 〜

この年の9月25日、特別機で北京に到着した田中角栄首相(当時)は、中国の周恩来首相の出迎えを受けました。

堅い握手を交わす光景に朝日新聞は「40年も続きに続いた痛恨の時間の流れは、このときついに止まった」と伝えています。

当時の日本の立場は、大陸の共産党中国よりも台湾政府を中国の代表と見てきていましたが、この年の2月のアメリカ大統領ニクソン(当時)の突然の訪中、そして平和共存と将来的外交関係の樹立を盛り込んだ共同声明の発表に、日本は対中国政策に大きな転換期を迎えなくてはならなくなっていたのです(米中の正式な国交樹立は1979年になります)。

この訪中には田中首相の強い意志があったということです。

日本が中国との日中友好・国交正常化への道を歩き始めようとした時に、戦後一貫してアメリカの許にあった日本外交がはみ出そうとした時、アメリカに対して「日本と中国の関係は、米中のつきあいよりはるかに長い」という言葉に、その強い意志を感じます。


 1972年 / こんな音楽が流行っていました 〜

歌謡曲からフォークソングの時代への転換もこの頃でした。
よしだたくろうさんの「結婚しようよ」が巷では大流行していました。

アイドル系では天地真理さんの「ひとりじゃないの」、小柳るみ子さんの「瀬戸の花嫁」が理大ヒットしました。

郷ひろみさん、森昌子さんのデビューもこの年です。